未来への”OneStep”

近現代9
理解度チェック(近現代9)
以下の問いに答えられますか。
解答例はページの下の方で。
1. 朝鮮戦争によって、日本が西側陣営の位置を確定したことを説明できる。
2. 独立後の吉田内閣の内政と外交の概要と、それに対する反発を説明できる。
3. 社会党統一の政治的意義と、保守合同に期待する財界の要望と期待を説明できる。
4. 60年安保闘争を説明できる。
5. 池田勇人内閣の政策を説明できる。
6. 佐藤栄作内閣の政策を説明できる。
7. 政府による経済復興政策でつくられた金融機関の役割と、政府の援助を説明できる。
8. 高度経済成長前の産業界の状況を、電力業、造船業、鉄鋼業の3視点から説明できる。
9. 高度経済成長の概要について説明できる。
10. 貿易拡大により、日本が求められた為替と資本の自由化を説明できる。
11. 大衆消費社会の概要を説明できる。
12. 高度経済成長の裏で拡大したさまざまな矛盾を説明できる。
13. 革新自治体について説明できる。
14. ベトナム戦争によるアメリカ経済力の弱体化や第4次中東戦争とが、日本経済へ及ぼした影響を説明できる。
15. 田中角栄の「列島改造論」が日本経済に与えた深刻な影響を説明できる。
16. 安定成長と、その外交的影響について説明できる。
17. 日本の産業構造の転換について説明できる。
18. 貿易摩擦におけるアメリカの対日要求と、日本の対応を説明できる。
19. バブル経済について説明できる。
20. 湾岸戦争以後の国際情勢に、日本がどのように関わったのかを説明できる。
21. 細川護熙内閣の成立事情と、細川内閣成立の歴史的意義を説明できる。
22. 平成不況の特徴を説明できる。
23. 小泉純一郎内閣の政策を説明できる。

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【解答例】
1. 在日アメリカ軍の軍事的空白を埋めるために、GHQの指令で警察予備隊が新設された。公職追放解除もすすめられた、共産党幹部や共産主義者を追放するレッド=パージが始まった。こうして、西側陣営の一国としての位置を確立した。
2. 破防法などで治安体制を整備して、警察も中央集権化した。また、アメリカの要求に応じて自衛隊を発足させて防衛体制を強化した。革新勢力はこれを「逆コース」と批判し、自民党内でも吉田首相に反発する勢力が増大した。
3. 合同することによって、社会党は改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保した。左派社会党の躍進に危機感をもった財界は、日本経済の安定のため、政府の補助金や保護を期待して、保守合同を求めた。
4. 革新勢力の側は安保改定阻止国民会議を組織した。条約が調印されると、安保改定反対運動が盛り上がり、条約が衆議院で強行批准されると運動は一挙に高揚して、巨大なデモが連日国会を取り巻いた。条約批准案は参議院の議決を経ないままに自然成立し、岸内閣は総辞職した。
5. 池田内閣は革新勢力との政治的対立を回避し、「所得倍増」のスローガンを掲げた。中国とLT貿易を開始した。
6. 佐藤内閣は日韓基本条約を締結し、「非核三原則」を明確化して、沖縄の変換を実現した。
7. インフレを激化させた復興金融金庫がドッジ=ラインで貸付を停止され、米国のエロア資金も停止される予定となった。そこで、政府は産業開発と経済の発展を促進するために、輸出振興を目的とする日本輸出銀行と産業資金の供給を行う日本開発銀行を設立した。また、企業合理化促進法を制定して、企業の設備投資に対して税制上の優遇措置をとった。
8. 電力業は、民有民営形態の地域別9電力体制に再編成された。造船業では政府主導の計画造船が進められて、日本の造船料は1956年に世界第1位となった。鉄鋼業では、第1次合理化計画が実施された。
9. 設備投資と技術革新を行い、日本的経営を確立すると、1955~73年にかけて年平均経済成長率は10%前後を維持し続けて、1968年にはGNPが世界第2位となった。
10. 1960年に「貿易為替自由化大綱」を決定し、1963年にGATT11条国へ移行して輸入制限ができない国となった。1964年にはIMF8条国へ移行して為替の、1964年にOECDに加盟して資本移動の自由化を実施した。
11. 個人所得が増大し、都市化の進展による生活様式の変化によって、大衆消費社会が形成された。太平洋ベルト地帯が出現した。農村と都市のひずみが大きくなった。「消費は美徳」の時代となり、流通革命や生活の洋風化も進展した。モータリゼーションが進展して、新幹線も開通した。レジャー産業やマス・メディアが発達し、国民の中流意識が誕生した。
12. 農村は過疎化し都市は過密化した。四大公害など公害が深刻化し、政府は1967年に公害対策基本法を制定して、1971年には公害行政と環境保全の一体化をはかるために、環境庁を発足させた。なお残る部落差別に対して、1969年に同和対策事業特別措置法を、1982年に地域改善対策特別措置法を制定した。
13. 大都市圏で日本社会党や共産党が推薦する革新首長が生まれた。革新自治体は、公害の規制や老人医療の無料化など、福祉政策で成果をあげたが、地方財政の赤字もふくらんだ。
14. 国際収支が悪化したアメリがニクソンショックをおこすと、日本や西洋諸国は変動為替相場制へと移行した。第4次中東戦争は第一次石油危機へとつながり、日本経済は大打撃を受けた。こうして、経済成長率の低下や物価・失業率の上昇とういう深刻な事態に直面した先進国は、先進国首脳会議を開催して、先進国間の経済政策を調整した。
15. 列島改造による公共投資の拡大は地価を高騰させ、第一次石油危機による原油価格の高騰も重なって、激しいインフレが起きて市民生活は混乱した。こうして日本経済は戦後初のマイナス成長となり、高度経済成長は終焉した。
16. 1970年代の後半、日本は企業の「減量経営」などによって、5%の成長率を維持した。第2次石油危機による原油価格の上昇もあったが、1980年台前半にも3%の成長率と低い失業率を維持した。しかし、日本の貿易黒字がふくらんだため、日米貿易摩擦が深刻化した。
17. 鉄鋼・石油化学・造船といった「重厚長大型産業」が停滞し、半導体・IC・コンピューターといった「軽薄短小型産業」が発展した。
18. 対日貿易赤字がふくらんだアメリカは、自動車などの輸出自主規制や農産物の輸入自由化を日本に迫った。日本政府は、1988年に牛肉・オレンジの輸入自由化を決定して1991年に実施した。
19. 日本は内需を拡大させ、景気を刺激するために、公共事業の拡大や公定歩合の引下げによる低金利政策をとった。しかし、超低金利によって市場にダブついていた余剰資金は、土地や株式の購入に向かい、地価や株価が高騰した。地価と株価の高騰で泡(バブル)のようにふくらんだ好況となったため、これを「バブル経済(景気)」という。
20. 湾岸戦争の際、日本はアメリカに「国際貢献」をせまられ、多国籍軍に多額の資金援助をおこなった。1992年、宮澤喜一内閣のもとでPKO協力法が成立して、自衛隊の海外派遣が可能になり、自衛隊をPKOに派遣し始めた。
21. 自民党政権の金権・腐敗が国民の激しい非難を浴びると、1993年に自民党は分裂して、総選挙で過半数割れを喫した。こうした政界再編の結果、共産党を除く非自民8党派の連立政権が、日本新党の細川護熙を首相として発足した。こうして55年体制は崩壊し、従来の保守と革新の対立は曖昧となり、不安定な連合政治の時代に突入した。
22. バブル経済の崩壊後、株価と地価が暴落して景気が後退した。株や土地は不良債権化し、金融機関の経営は悪化して破綻・倒産が相次ぎ、企業のリストラによって雇用不安となるなど、複合不況となった。
23. 小泉内閣は小さな政府をめざして、「聖域なき構造改革」を標榜し、財政赤字の解消と景気の浮揚をめざして郵便事業と道路公団の民営化をおこなった。北朝鮮による日本人拉致問題解消を目指して訪朝し、日朝平壌宣言を発表した。自衛隊をイラクに派遣した。また、有事関連法案を成立させて有事法体制を整えた。