豊臣兄弟登場人物動向チェック 第22回「播磨大誤算」(6/7・6/8配信まとめ)
- 順大 古川
- 6月7日
- 読了時間: 13分
更新日:6月8日
尼子勝久
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):尼子勝久は今?
(26歳(天文22(1553)年生)
・元亀元(1570)年、毛利氏に敗れて、織田信長を頼りました。
ドラマで秀吉が思い出していたのは、このときのことでしょうか。
・天正5(1577)年12月3日以降、秀吉が落とした上月城に入城します。
・天正6(1578)年3月、別所長治が離反したので、上月城が孤立します。
4月、毛利氏が上月城攻めを開始します。
5月末、上月城は、水も食料も全く無いという状況にまで追いつめられます。
7月5日、毛利氏の吉川元春や小早川隆景らに降伏します。(『戦国人名事典』には、7月3日に落城とあります)。『戦国武将合戦事典』には、7月3日に自刃とあります。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)
『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/45eYv8O)
山中幸盛
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):山中幸盛は今?
(39歳(天文9(1540)年生?)
・天正5(1577)年12月3日以降、尼子勝久が、秀吉が落とした上月城に入城します。このとき、山中幸盛も人質を秀吉に差出して、上月城に差し置かれます。
・天正6(1578)年3月、別所長治が離反したので、上月城が孤立します。
4月、毛利氏が上月城攻めを開始します。
5月末、上月城は、水も食料も全く無いという状況にまで追いつめられます。
7月5日(3日?)、尼子勝久が、毛利氏の吉川元春や小早川隆景らに降伏します。勝久は自刃しますが、山中幸盛は、備中松山城の毛利輝元の本陣に護送される途中に、殺害されます。殺された場所は、高梁川の阿井の渡しです。


☆参考文献:
『戦国武将列伝9 中国編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4uPVHJO)
安国寺恵瓊
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):安国寺恵瓊は今?
(?歳(?年生)
・天正元(1573)年、信長の滅亡を予言します。
このころ(天正6年)の動向はまだ調べがついていません。人物叢書にあれば。。。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)
『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/45eYv8O)
小寺(黒田)官兵衛
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):黒田官兵衛は今?
(33歳(天文15(1546)年生)
・天正5(1577)年11月29日、秀吉のもとで、上月城を攻めます。
・天正6(1578)年3月、別所長治が離反します。このときに、官兵衛の主君の小寺政職も離反の動きを見せます。官兵衛は、別所攻めに加わるよう命じられ、三木城に向かいます。
4月1日、別府城に攻めてきた毛利氏を撃退します。秀吉にも信長にも褒められます。
4月中旬、毛利氏が上月城攻めを開始します。
秀吉が上月城救援のために高倉山に陣を置いた時など、このころの官兵衛の動向は分かりませんでした。小和田哲男『黒田如水』によると、宇喜多直家を調略していたようです。
☆参考文献:小和田哲男『黒田如水』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/43EXDc8)
別所長治
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):別所長治は今?
(24歳?(弘治元(1555)年生?)
・天正6(1578)年2月ごろ、信長から離反します。
☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
別所賀相(よしちか)
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):別所賀相は今?
(?歳)
・天正6(1578)年2月ごろ、長治が信長から離反します。
『別所長治記』によれば、会議の席で、賀相が信長は信じられない旨を語って、長治に謀叛を進めたといいます。『播磨別所記』では、「佞人」と呼ばれ、謀叛の元凶とされています。
☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
別所重棟
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):別所重棟は今?
(?歳)
・天正6(1578)年2月ごろ、長治が信長から離反します。
重棟は、秀吉を裏切りませんでした。
秀吉の命令で長治と賀相を説得しますが、失敗しました。
なので、重棟は、長治・賀相と敵味方に別れることとなりました。
☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
高山右近
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):高山右近は今?
(26歳(天文22(1553)年生))
・天正6(1578)年10月21日、信長のもとに「村重逆心」の報が入ります。
このとき、右近は、信長に反するのは道理を外れるとして、村重に再考を迫ったそうです。
右近は有岡城に乗り込んで、17条の離反すべきでない理由を村重に突きつけます。
ドラマとは逆で、右近は謀叛反対派だったんですね。へー。
☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
中川清秀
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):中山清秀は今?
(37歳(天文11(1542)年生))
・天正6(1578)年10月21日、信長のもとに「村重逆心」の報が入ります。
そこで、村重は信長のもとに弁明に向かいますが、茨木城の清秀が村重を止め、謀叛を進めたと言われています(『隆佐記』)。
☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
足利義昭
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):足利義昭は今?
(42歳(天文6(1537)年生)
・天正4(1576)年2月、備後国鞆に入ります。
・天正6(1578)年3月、頼りの上杉謙信がトイレでぶっ倒れて死にます。
10月以前、義昭の侍臣の小林家孝らが、荒木村重のもとまで行き、毛利方に寝返って信長を裏切るように説得します。小林家孝は、村重が裏切ったときに毛利から褒められました。
ドラマでは、義昭抜きで村重の離反を描いていましたね。
参考文献:山田康弘『足利義輝・義昭』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4a91kue)
明智光秀
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):明智光秀は今?
(51歳(享禄元(1528)年生(ミネルヴァ))
・天正6(1578)年1月11日、坂本城で茶会を催します。
3月、八上城の波多野秀治を攻めます。
4月10日、園部城(細工所城か)の荒木氏綱を攻めます。その直後に、摂津に転戦します。
4月29日、上月城の救援に向かいます。
7月16日、信忠に従って、播磨の神吉城を攻め落とします。
8月、娘の珠ちゃん(ガラシャ)が、細川忠興に輿入れします。
11月9日、摂津有岡城の荒木村重を攻めます。
12月11日、摂津から丹波に戻ります。
参考文献:小和田哲男『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4v28ad1)
高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館)(https://amzn.to/3RI7gEa)
丹羽長秀
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):丹羽長秀は今?
(44歳(天文4(1535)年生)
・天正6(1578)年3月、明智光秀の丹波攻めの援軍として、丹波へと出陣します。
4月、信忠にしたがって、摂津に出陣。
4月、丹波園部城(細工所城か)の荒木氏綱を攻略に加わります。
4月29日、播磨に出陣します。
6月27日、志方城を攻めます。その次に、神吉城攻めにも加わります。
7月16日、神吉城を落とします。
11月、荒木村重の有岡城攻めに加わります。花隈城を攻めて、一谷を放火します。
参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)
『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
細川藤孝
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):細川藤孝は今?
(45歳(天文3(1534)年生)
・天正6(1578)年4月、信忠にしたがって摂津に出陣します。
5月1日、信忠にしたがって播磨に出陣します。
5月27日、神吉城攻めに加わります。
8月、明智光秀の娘の珠(ガラシャ)が、藤孝の息子忠興のもとに輿入れしてきます。
11月、荒木村重の有岡城攻めに加わります。有岡城が落ちたあとも、尼崎城や花隈城に備えて摂津に留まります。
☆参考文献:
『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
織田信忠
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):織田信忠は今?
(22歳(弘治3(1557)年生)
・天正6(1578)年元旦、信長の茶会の筆頭として席に連なります。
正月4日、信長から賜った茶器の披露会を開きます。
正月29、安土在住の家臣の家から出火します。信長の調査によって、命令違反で家族を連れてきてない者が多かったことが判明します。信忠は、信長の命で単身赴任していた家臣の家に放火します。
4月9日、信長が右大臣を辞任します。その際に、顕職を嫡男信忠に譲りたい旨を述べます。
4月、大坂攻めの総大将をつとめます。
5月、播磨救援の総大将をつとめます。8月まで播磨にいて、諸城を攻略します。
11月9日、信長自ら出陣する村重攻めに同陣します。
城下町集住に関わる出火事件は、この年なんですね。
参考文献:
『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)
池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dP8FBp)
織田信孝
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):織田信孝は今?
(21歳(永禄元(1558)年生)
・天正6(1578)年4月、信忠に従って、大坂攻めに従軍します。
5月、信忠に従って、播磨救援軍に加わります。
6月27日、神吉城を攻めるときに、足軽と先を争って果敢に攻撃したそうです。
11月3日、信長と信忠が村重攻めに出陣しますが、信孝はお留守番です。ただし、まもなく出陣して、高槻城の包囲に加わります。
参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)
『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
織田信澄
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):織田信澄は今?
(21歳(永禄元(1558)年生)
前提として、信澄は近江高島郡の支配を任された磯野員昌の養子にされたようです。あと、信澄は信勝(信長に誅殺された弟のこと)の子で、妻は明智光秀の娘というビミョ~~な立ち位置です。
・天正6(1578)年2月、養父の磯野員昌が出奔します。これで、近江高島郡の乗っ取り成功です。
この年、信忠のもとで、大阪、播磨、摂津などを転戦します。
参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)
『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
上杉謙信
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):上杉謙信は今?
(49歳(享禄3(1530)年生)
・天正6(1578)年正月19日、関東出陣の陣触れをします。
3月9日、「不慮の虫気」により、トイレでぶっ倒れて、意識不明となります。
3月13日、死去します。
参考文献:矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/42FRhsK)
与一郎
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):与一郎は今?
(?歳?年生)
史実ベースでは秀長の実子(慈雲院(慶)との間の子)です(『羽柴秀吉とその一族』)。まだ子供なので、動向は分かっていません。
参考文献:黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)(https://amzn.to/4wA9Qfn)
豪姫
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):豪姫は今?
(5歳(天文2(1574)年生)
さすがに、まだ正確な動向は分からないようです。
参考文献:岩沢愿彦『前田利家(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dOONOT)
藤堂高虎
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):藤堂高虎は今
(23歳(弘治2(1556)年生)
このころの動向は不明瞭なところも多いのですが、基本的には秀長のもとでがんばっていたと考えられています。
・天正6(1578)年、別所長治が反乱したときの三木城攻めに加わっていたようです。そして、野口城の攻略にも取り掛かったようです。秀長が播磨でも別所と戦ったりしているので、高虎もいたのかもしれません。
☆参考文献:
諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4dAxyRd)
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)
吉川弘文館『戦国武将合戦事典』(https://amzn.to/45eYv8O)
石田三成
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):石田三成は今
19歳(永禄3(1560)年生)
ドラマのように、秀吉の長浜城時代に出仕します。
史料に初登場するのは天正11(1583)年なので、正確な出仕年代は不明です。
このころの動向はわかりません。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
平野長泰
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):平野長泰は今
(19歳(永禄2(1559)年生)
ドラマでは、天正5(1577)年に秀吉に出仕しますが、『戦国人名辞典』によると、実際の出仕は天正7(1579)年のようです。
☆参考文献:
『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)
片桐且元
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):片桐且元は今?
(23歳(弘治2(1556)年生)
ドラマのように、秀吉の長浜城時代に出仕します。
辞書で言及されているのは、賤ケ岳の戦いからなので、正確な出仕年代は不明です。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
加藤清正
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):加藤清正は今?
(17歳(永禄5(1562)年生)
すでに小姓として、秀吉に仕えています。
天正元(1573)年ごろには、長浜のあたりに170石を与えられていました。
まだ動向は不明です。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
福島正則
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):福島正則は今?
(18歳(永禄4(1561)年生)
幼少のころより、秀吉に仕えていました。
まだ動向は不明です。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
筒井順慶
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):筒井順慶は今?
(29歳(天文18(1549)年生)
◇天正6(1578)年◇
・正月14日、箸尾氏が、順慶に帰順します。
・4月27日、播磨に出陣します。
・6月27日、神吉攻めに参加します。
・8月22日、丹波にも転戦した後、この日に帰国します。
・9月30日、今井宗及が信長をもてなすために開いた茶会に、順慶も「御供ノ衆」の一人として参加します。同日の津田宗及主催の茶会では、座敷の外で接待を受けます。
・10月7日、大仏供氏征伐のために、十市城に出陣します。
・10月11日、上市などを焼き払います。
・12月11日、信長の荒木村重攻めの時は、順慶は播磨への援軍を命じられます。三木城の攻囲に加わります。
村重攻めには加わらなかったんですね。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
金松誠『筒井順慶』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4tTdT40)
荒木村重
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):荒木村重は今?
(43歳(天文5(1536)年生)
◇天正6(1578)年◇
・4月、上月城の後巻きとして出陣しますが、高倉山でなすすべもなく時間を過ごします。
ドラマでも、高倉山の陣にいました、、、よねえ。
・6月26日、秀吉とともに書写山円教寺に移ります。神吉城攻めに加わります。
・7月26日、西の丸を落とします。
全体的に、以前よりも地位が下がっていて、秀吉の補佐につくことを余儀なくされています。
・10月21日、「村重逆心」の噂が信長の耳に入ります。村重は、糾問に来た明智光秀たちに弁明します。
ドラマだと、村重が安土城に呼ばれて、安土城で信長に直接弁明していました。
高山右近や中川清秀のところで書いたように、荒井家中で謀叛するかどうかが紛糾しますが、結局村重は謀叛を決意します。
・11月3日、光秀や秀吉の説得を突っぱねます。
この辺からが、次回でしょうか。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dP8FBp)
『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)
豊臣秀長
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):豊臣秀長は今?
(38歳(天文10(1541)年生)
◇天正6(1578)年◇
竹田城の城代をつとめています。
・10月、播磨国で別所軍と戦います。
ドラマでは、、、今週も苦労人でしたねえ。。。
☆参考文献:河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4eAfDv7)
豊臣秀吉
#豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」(1578年(天正6年):豊臣秀吉は今?
(42歳(天文6(1537)年生)
◇天正6(1578)年◇
・元旦、信長の茶会に出席します。
・2月23日、播磨に出陣して、書写山に陣を置きます。
・3月29日、三木城攻めが始まります。
・5月24日、信長に褒美を賜ります。
・6月27日、上月城を見捨てます。
・7月7日、但馬に攻め込みます。
・8月10日、播磨志方城を落とします。
・11月3日、信長に反旗を翻した荒木村重を説得しに行きます。
☆参考文献:
藤井譲治『豊臣秀吉』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4dlVeaT)
柴裕之『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4uhsUgT)
慶(慈雲院)
#豊臣兄弟 20回「本物の平蜘蛛」(1577年(天正五年):慶(慈雲院)は今?
(?歳寧々ぐらいの年齢?(?年生)
・天正14(1586)年、『多聞院日記』にて、歴史に初登場します。
なので、このころの動向は不明です。
『羽柴秀吉とその一族』によると、秀長の最初の嫡男の与一郎(1568年ごろ生まれ)が慈雲院の実子だと推定されるそうです。
ドラマでは、慶の子ではあっても、秀長の実子ではないという話になりましたね。てか、ドラマの与一郎くんって、やたらとキムタクに似てませんか?
☆参考文献:黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)(https://amzn.to/48Oxt9Z)
本多忠勝
#豊臣兄弟 20回「本物の平蜘蛛」(1577年(天正五年):本多忠勝は今
30歳(天文十七(1548)年生)
長篠の戦いのあと、まだ調べがついていません。
→参考文献では、分かりませんでした。
☆参考文献:
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)
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菊地浩之『徳川十六将』(角川新書)(https://amzn.to/49jihSz)
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