受験生・学生の質問を受けつています。
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以下の問いに答えられますか。
解答例はページの下の方で。
1. 長岡京・平安京に遷都した目的を説明できる。
2. 7世紀後半から平安初期にいたる、東北地方への国家の支配領域の拡大の過程を説明できる。
3. 平安京造営と征夷が停止された理由を説明できる。
4. 地方支配の改革という観点から、桓武朝の政治改革を説明できる。
5. (天皇権力の確立という観点から、)嵯峨朝の政治改革を説明できる。
6. 令外官や格式が令制官職や律令にかわる機能を果たすようになった様子を説明できる。(難)
7. 班田収授法ができなくなり、朝廷の財政収入が減少した理由を、農民の動向と租税制度から説明できる。
8. 国家による新たな財源確保方式が、律令国家を変容させる一因となったことを説明できる。(難)
9. 外戚関係という観点から、藤原氏北家の勢力拡大を説明できる。
10. 『小右記』の記事から、藤原道長が摂関政治の全盛期を現出できたのかを説明できる。
11. 摂関政治期の政治運営の実態を説明できる。
12. 外戚関係という観点から、摂関政治の終焉を説明できる。
13. 唐の政治状況や商人の活発な活動を念頭に置いて、遣唐使派遣中止の理由を説明できる。
14. 唐滅亡後の東アジアの情勢を捉えたうえで、日本と東アジアの国際関係の実情を説明できる。
15. 文章経国思想とは何かを説明できる。
16. 唐風化の動きを背景とした、漢詩文と学問の発展を説明できる。
17. 最澄と空海の活動を対比したうえで、密教が流行していくまでの新仏教の展開を、天台宗・真言宗と整理して説明できる。
18. 平仮名と片仮名の発生の由来と発達の過程を説明できる。
19. 11世紀になると多くの文学作品生まれてきた理由を説明できる。
20. 浄土教が流行した理由を説明できる。
21. 書道と絵画について、唐風文化が重んじられた弘仁・貞観文化と国風文化とを比較して、それぞれの特徴を比較できる。
22. 定朝が発明した手法と、その恩恵を説明できる。
23. 貴族の生活を制約する、禁忌や年中行事を説明できる。
【解答例】
1. 仏教政治の弊害を改めて、天皇権力を強化するため。
2. 七世紀後半、孝徳朝に渟足柵と磐舟柵を日本海側に設け、斉明朝に阿倍比羅夫を派遣した。八世紀の前半には出羽国を設置して、陸奥国に多賀城を建造して、陸奥国府と鎮守府を置いた。九世紀には征夷大将軍坂上田村麻呂が阿弖流為を帰順させ、胆沢城を築いて鎮守府をそこに移した。桓武朝の末期の徳政相論によって征夷と造都の停止が決定され、嵯峨朝の文屋綿麻呂の遠征を最後に大規模な征夷は行われなくなった。
3. 国家財政や民衆にとって、大きな負担となったから。
4. 国司交代の際の事務引継を監督する勘解由使を設けた。辺要を除いて軍団・兵士を廃止して、郡司の子弟からなる健児制を採用した。また、12年毎としつつも、班田の励行をはかった。
5. 天皇の命令を太政官に直接伝達するために蔵人頭を設置した。平安京内の警察を担当する検非違使をおいた。政治実務の便をはかって、弘仁格式を編纂した。財源を確保するために直営田を設けた。
6. 蔵人所が掌る宣旨はやがて詔書や勅書にかわる役割を果たすようになり、詔勅の伝宣を主務とする少納言局や中務省が形骸化していった。検非違使はのちに裁判も行うようになり、弾正台や衛府の本来の役割を奪っていった。
7. 籍帳にもとづく人頭税方式は、農民の浮浪逃亡によって籍帳が有名無実化すると崩壊した。それゆえ、国司が徴税できなくなっていった。
8. 朝廷などは財源を確保するために直営田を設けたが、直営伝の徴収方式は実質的には地税と化しており、後の税収方式の転換の先駆となった。
9. 当時の貴族社会では、結婚した男女は妻側の両親と同居し、母方の縁が重んじられていた。藤原氏は天皇のもっとも身近な外戚として、伝統的な天皇の高い権威を利用して、大きな権力を握った。
10. 威子が入内することによって、三代の天皇の皇后がすべて道長の娘という空前の自体が現出し、摂関政治の全盛期をもたらした。
11. 太政官は機能しており、政策の伝達は太政官からなされたが、重要な問題は陣定で話し合われて天皇の決裁の参考にされた。官吏の人事権は摂関が掌握していたので、中・下級貴族は摂関家に隷属した。
12. 頼通が入内させた娘が皇子を産まなかったため、藤原氏を生母としない後三条天皇が即位して天皇親政が始まった。藤原教通が関白となったが、天皇の外戚ではなかったため力をもてなかった。
13. 当時は新羅や唐の商人が頻繁に来航して貿易が行われていた。また、安史の乱以来唐の衰退が著しかったため、道真は、あえて危険を冒してまで渡唐する必要はないとした。
14. 中国では宋がおこり、渤海は遼に滅ぼされ、朝鮮半島では高麗がおこった。日本は、それらの諸国とは国交を開かなかった。高麗とのあいだいは商人などの往来があった。
15. 文章経国思想とは、文芸は国家の支柱として国家の隆盛を担う政治的役割をもっているという考え方。
16. 貴族が教養として漢詩文をつくることを重視したためえ、漢文学が盛んになった。儒教を学ぶ明経道や中国の歴史・文学を学ぶ紀伝道が盛んになって、貴族は一族子弟の教育に力を入れた。
17. 桓武天皇の支持を背景に延暦寺を開いた最澄は、大乗戒壇創設をめぐって南都諸宗と対立した。皇室や貴族は加持祈祷による現世利益を求めて密教に期待したが、最澄は密教を正式には学んでおらず、正式に密教を学んで帰国した空海が嵯峨天皇の支持を得た。正式な密教を学ぶ必要を痛感した天台宗では、円仁・円珍が唐に渡って、その密教化をはかった。
18. 漢字の字画の一部をとってほかを省く省画がなとして生まれた片仮名は、仏典など漢文を訓読する際の補助記号として発達した。貴族の手紙などに用いられるようになる平仮名は、万葉仮名の草書体を簡略化してつくられていった。
19. かな文字が広く使用されるようになり、人々の感情や感覚を日本語で生き生きと書き表すことができるようになったため。
20. 盗賊や乱闘が多くなり、災厄がしきりにおこった世情により末法思想が流行した。そうした世情を背景に、空也が京の市で浄土教をとき、源信が念仏往生の教えをとくなどしたため。
21. 書道では、平安前期における唐風の書にかわって、優美な線を表した和様が発達した。絵画では、中国の故事や風景を描いた唐絵に加えて、日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な彩色をもつ大和絵も描かれた。
22. 定朝が完成したとされる寄木造の手法は、仏像の各部位をそれぞれ別々につくり、あとにそれらを組み上げて造像するものである。寄木造によって、用材の制限を受けずに大きな像をつくることができるようになり、各部位を多くの仏師が分担してつくることによって作業が早く進み大量の需要に応じることができるようになった。
23. 年中行事とは、一年の特定の日に慣習として行われる行事のこと。平安時代の禁忌としては、引きこもってつつしむ物忌や、凶の方角を避けて行動する方違などがあった。
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