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赤染衛門 「光る君へ」人物事典032

更新日:8月27日

【目次】



赤染衛門(あかぞめえもん):凰稀かなめ(おうきかなめ)

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


女流歌人。道長の妻・倫子の女房であり、さらに一条天皇の中宮となる娘の彰子にも仕えた。姫たちに学問を指南するうちに、文学好きなまひろとも交流することになる。


やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな(小倉百人一首)

の人です。


やたらと人柄が良かったようで、紫式部に好かれています。匡衡ラブすぎて、道長や彰子に「匡衡衛門」とも呼ばれていました。

大河ドラマでは、27話で閨房に能力を全振りしていることがバレてしまいました。


キャスト:凰稀かなめ

元宝塚歌劇団宙組トップスターです。


6月14日に内裏が火事で焼亡した件について、8月ごろに赤染衛門のダンナ大江匡衡が、「内裏が焼けたのは、一条天皇が定子を連れ込んでるからじゃね?」と、行成に話しています。

ドラマでは、27話で閨房に能力を全振りしていることがバレます。



29回「母として」(1001年)ごろの赤染衛門

長保三年(1001年)3月3日、ダンナの大江匡衡が、尾張守に任じられた満面の喜びの手紙を行成に送っています。赤染衛門も喜んだのでしょう。



解説:実際の赤染衛門・その後の赤染衛門

やたらと人柄が良かったようで、清少納言などには辛辣な紫式部に好かれています。

中古三十六歌仙の一人に選ばれた女流歌人です。赤染時用の娘ですが、実父は平兼盛の可能性もあります。平安末期(12世紀中盤)に成立した歌論『袋草紙』に、平兼盛の妻であった母が赤染時用に再嫁して間もなく赤染衛門が生まれたので、娘の認知をめぐって両者が争ったとあるからです。

源倫子藤原道長の妻)に仕えているときに、大江為基と恋愛しました。次に、為基の従兄の大江匡衡と結婚しました。一男二女を生み、良妻賢母の説話が多いそうです。まひろ(紫式部)も『紫式部日記』で赤染衛門の人柄を褒めています。『栄花物語』の作者だという説があります。


長保四年(1002年)

春、熱田神宮に詣でます。尾張の国司となった夫大江匡衡といっしょに行ったと思われます。


寛弘二年(1005年)

7月、夫の大江匡衡が公任の辞表を代筆します。このとき、閨房に全振りした赤染衛門が内容のアドバイスをしたという話があります。

8月、夫の大江匡衡が道長の浄妙寺三昧堂の願文を書きます。


寛弘六年(1009年)

夫の大江匡衡が尾張守になったので、同行します。


(1010年)

夫の大江匡衡が丹波守にうつったので、同行します。


長和元年(1012年)約55歳

夫の大江匡衡(約60歳)を亡くします。


万寿三年(1026年)

彰子が出家したときに、悲しみの歌を詠います。


年表

赤染衛門の略年表を示します。年齢は数え年です。


1012年:夫の死後、出家。

この後も、倫子上東門院(彰子)のもとに出入りし続ける。

1033年:倫子の七十賀屏風歌で詠う。

1035年:賀陽院水閣歌合で詠う。

1041年:弘徽殿女御十番歌合で詠う。

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