受験生・学生の質問を受けつています。
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以下の問いに答えられますか。
解答例はページの下の方で。
1. 朝鮮半島の情勢を説明できる。
2. 渡来人と結んだ蘇我氏がなぜ勢力を拡大できたのかを説明できる。(難)
3. 冠位十二階と憲法十七条の目的から、推古朝の目指す方向性を示すことができる。
4. 史料を用いて、隋との外交の特色を説明できる。
5. 大化改新の背景を、東アジアの動きから説明できる。
6. 改新詔が中央集権を目指した(達成したではない)ものであることを理解できる。
7. 白村江の戦いを唐と朝鮮三国と倭国との関係から説明できる。
8. 白村江の戦いの敗戦が中央集権化をすすめたことを理解できる。
9. 壬申の乱が中央集権化をすすめたことを理解できる。
10. 飛鳥が都としての性格をもつようになる過程を、中央集権化の進展のなかに位置づけることができる。(難)
11. 氏寺が建立された背景を説明できる。
12. 白鳳文化の特徴を、7世紀後半から8世紀初頭の政治の動向、および新羅との関係から説明できる。
【解答例】
1. 高句麗の圧迫により百済と新羅が南下し、伽耶が百済と新羅の支配下に入った。このため、伽耶と結びつきのあったヤマト政権の朝鮮半島での影響力は後退した。
2. 様々な先進技術と知識、とくに文書作成能力に優れた渡来人と結ぶことによって、最新の知識を吸収し、朝廷の実務や財政の実権を握ったから。また、大伴氏・物部氏といった対抗勢力の力を削ぐことに成功したから。(なお、蘇我氏と結んだ代表的な渡来人系氏族は①東漢氏(軍事・土木・建築)②鞍作(仏像製作)③西文氏・葛井・船(漢字・行政))
3. 冠位十二階は王権組織を官僚制的に再編成するものであり、憲法十七条は豪族たちに官僚としての自覚を求めて新しい政治理念として仏教を重んじるものであった。こうして中央行政機構を整えて、中央集権的な国家体制の構築を目指し始めた。
4. 『隋書』によると、600年に倭国の王が使者を遣わしてきたときに、隋の皇帝が倭国の王の政治方式や外交方式を諌めたことが記されている。その後、冠位十二階の制や憲法十七条で国内体制を整えた倭国が607年に再び使者を遣わしたことが『日本書紀』と『隋書』から分かる。倭国は朝鮮半島に対する影響力を強めるために隋唐の対等な外交を目指した。また、翌年には、最新の知識や文化を学ぶために、留学生なども遣わした。
5. 中国の統一国家である唐が七世紀半ばに高句麗への侵攻を開始すると、国際的な緊張が高まった。そのため、周辺諸国は唐の存在に対抗するために国家体制を強化する必要性を感じて、中央集権の確立と国内統一へと向かっていった。中大兄皇子らは王族中心の中央集権をめざして、蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼして政治改革を進めた。
6. 公地公民制・統一的税制・地方行政組織を刷新する旨の詔をだし、中央官制を整えて宮を新たに造営することによって、中央集権体制を目指した。
7. 朝鮮半島では、唐と新羅が結んで百済を滅ぼした。倭国は新羅との関係が良好ではなかったため、百済の滅亡は朝鮮半島からの文化流入経路の喪失につながる恐れがあったから。また、倭国に滞在していた百済王子を王として百済の復興ができれば、倭国の朝鮮半島への影響力が増大することになるから。
8. 白村江の敗戦は、本来ならば中央集権によって自らの権限が朝廷に奪われることに抵抗する傾向のある諸豪族にも危機感を抱かせた。それゆえに、国家体制を強化する中央集権体制設立に対する豪族の抵抗は弱まり、豪族の協力も得られたから。
9. 近江朝廷側についた旧来の有力中央豪族が失権し、天武天皇が強大な権力を手にしたから、中央集権的国家体制の形成が進んだ。
10. 飛鳥の地に最初に営まれた大王宮は、推古天皇が即位した豊浦宮である。これ以後、大王一代ごとに営まれる大王宮は飛鳥周辺に集中するが、有力な王族や豪族は、大王宮とは別に独自の宮・邸宅を営んだ。このことは、中央集権化の途上にある当時の王権の状況を反映している。藤原京は恒久の都として造営され、宮の周辺に王族や豪族が集住させられた。政務や儀式の場も整えられて、新しい中央集権国家を象徴する都となった。
11. 飛鳥時代には、古墳に代わる氏族の結集の象徴として氏寺が建立された。白鳳文化は中央集権を目指すという形成期国家の清新な文化で、百済が滅亡して唐との交流が途絶えるなか、白村江の戦いの後に関係を修復した新羅を経由してもたらされた。
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