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執筆者の写真順大 古川

高校教科書理解度チェック:中世4(大学入試論述対策)

受験生・学生の質問を受けつています。

質問フォームに質問を送れば、ブログで回答します(できる限り)。



以下の問いに答えられますか。

解答例はページの下の方で。

1. 武士の立場からみた後醍醐天皇の綸旨絶対主義の問題点を説明できる。

2. 建武政権が短期間で崩壊した過程を説明できる。

3. 建武政権が崩壊した後、尊氏が持明院統を擁して京都に、大覚寺統が吉野に拠った経過を説明できる。

4. 南北朝の動乱が長期化した背景と経緯を説明できる。

5. 守護大名の権限が強化された背景と経緯を説明できる。

6. 国人一揆が形成される背景を説明できる。

7. 足利義満が南北朝合体や有力守護大名の粛清を通して、強大な権力を形成し、公武両権力の頂点として安定した支配体制を築いたことを説明できる。

8. 室町幕府の職制と財政基盤を説明できる。

9. 14世紀の東アジアにみられる政治的変動に着目しつつ、交易形態の変化を説明できる。

10. 政権の安定性と倭寇出現の関係性を説明できる。

11. 冊封体制と朝貢貿易の構図を説明できる。

12. 琉球の地理的条件に留意しつつ、琉球王国の成り立ちを説明できる。

13. 蝦夷ヶ島におけるアイヌと和人の関係性を説明できる。













【解答例】

1. 権力の天皇集中を理想とした後醍醐天皇は、武士にとって最も重要な土地所有権の確認には綸旨を必要とするという方針を打ち出したため、所領裁判が滞った。ちまたでは偽綸旨が横行し、武士社会の慣習が無視された綸旨が出された。

2. 建武政権が行った、武士社会の慣習を無視した裁判や不公平な恩賞は、武士の不満をまねき、即席の政治機構と人間対立は、政務の停滞や社会の混乱をまねいた。こうして、建武政権は急速に人びとの信頼を失っていった。こうした状況のなか、足利尊氏が中先代の乱を契機に反旗を翻したため、建武政権は瓦解していった。

3. 足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立して、建武式目を発表した。大覚寺統の後醍醐天皇は京都から吉野に逃れて、自身が正統であることを主張した。

4. 優勢であった北朝が内部分裂して観応の擾乱がおこり、北朝の尊氏派と北朝の直義派、および南朝方の三者が、10年余りも離合集散を繰り返したため。また、武士社会では惣領制が解体しており、単独相続が一般的になっていた。そのため、各地の武士団は分裂して対立し、一方が北朝につけば反対派は南朝について動乱を拡大させた。

5. 南北朝の動乱のなか、幕府は地方武士を動員するために守護の権限を拡大した。鎌倉時代後期に刈田狼藉の検断権を得ていた守護は、使節遵行権を与えられ、さらに半済令によって一国内の荘園や公領の年貢の半分を挑発する権限を認められた。守護は侵略した荘園公領を武士に分け与えて武士を被官化し、守護請も行われた。守護は国衙の機能も吸収して一国全体におよぶ地域的支配権を確立して任国を世襲するようになり、守護大名となった。

6. 地頭など、在地の領主は国人とよばれるようになった。国人は自立の気質が強く、自主的に相互間の紛争を解決したり、農民を支配したり、守護に対抗するために国人一揆を形成した。

7. 南北朝の合体を達成した足利義満は、朝廷に対しては京都の施政権や段銭賦課権を吸収して花の御所を造営し、武士に対しては土岐康行の乱・明徳の乱・応永の乱と、有力守護大名の勢力を次々に削減していった。義満は武士の頂点たる征夷大将軍を辞任した後、朝廷も武士も含む頂点である太政大臣に就任した。義満は出家した後も、幕府や朝廷に対して実権をふるい続けた。

8. 管領は将軍を補佐する職で、細川・斯波・畠山の三管領から交代で任命された。侍所は京都内外の警備や刑事裁判を司り、赤松・一色・山名・京極の四職から任命された。これらの有力守護は在京して幕政の運営にあたったが、一般の守護も両国は守護代に統治させて、自身は在京して幕府に出仕した。 財政面では、土倉役・酒屋役・関銭・津料・日明貿易・抽分銭など、経済・金融活動からの収入も大きかった。国家的行事の際には、守護を通して全国的に段銭や棟別銭を徴収した。

9. 元とは国交を結んでおらず、民間船の往来があった。元を北方に追い戻して建国された明は、朝貢国以外とは通行しないという海禁政策をとったため、足利義満は朝貢形式で貿易を行った。朝貢貿易では、明での滞在費や運送費はすべて明側が負担したため、日本側の利益は大きかった。

10. 鎌倉末から南北朝期における日本の混乱が前期倭寇を出現させ、前期倭寇は明や朝鮮が建国されて南北朝内乱が集結すると、沈静化していった。東アジアで交易の需要が拡大してくると、勘合貿易などではその需要をまかないきれなくなり、中国南部の商人による密貿易が盛んになった。こうした武装した中国人密貿易者も倭寇(=後期倭寇)とよばれた。

11. 中国皇帝へ貢物を奉って朝貢して臣下の礼をとる周辺諸国の君長に対し、皇帝は国王に封じて返礼として回賜品を下賜するという、中国を中心とする国際秩序を冊封体制という。明は冊封体制の復活をめざして、周辺諸国に対して通交を求めた。

12. 日本・明・東南アジアの中間にある琉球王国は、明の海禁政策のもとで、中継貿易で繁栄した。

13. 蝦夷ヶ島南部に進出した和人が、道南十二館を拠点としてアイヌと交易した。



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