日本史 国公立2次試験向け 理解度チェックリスト(古代3) 【大学受験お役立ち】

1. 大宝律令が完成して中央集権国家体制が整ったにもかかわらず、集権体制が不完全であることを、郡司の性質から説明できる。

2. 八虐が定められた理由を説明できる。(難)

3. 戸籍・計帳の作成目的を、それぞれ説明できる。

4. 班田収授法のしくみを説明できる。

5. 公民の負担のうち、どれが重かったか分かる。また、人頭税について説明できる。

6. 8世紀の東アジア情勢を説明できる。(難)

7. 遣唐使や留学生たちが果たした役割を説明できる。

8. 唐・新羅渤海との通交がもたらした政治的・文化的・経済的影響をとらえる。

9. 平城京の構造上の特色を説明できる。

10. 市のしくみや和同開珎の流通の実態を説明できる。

11. 国衙と郡家の特徴を説明できる。(難)

12. 律令国家の、東北への領域拡大と、南九州への領域拡大の違いを説明できる。

13. 皇親勢力と対抗するなかで藤原氏が大きな政治的影響力をもつようになった過程を説明できる。

14. 国分寺建立・大仏造立が進められた、政治的・社会的背景を説明できる。

15. 僧侶の政権という特殊な政治形態が登場した理由を、天皇権力との関係から説明できる。(難)

16. 民衆の家族における女性の地位を説明できる。

17. 土地政策の変化とその意義を説明できる。

18. 農民の浮浪・逃亡がいかにして公民制の動揺をまねいたのかを説明できる。

19. 天平文化の国際性を、その背景とともに説明できる。

20. 『古事記』『日本書紀』の相違点をふまえて、正史や地誌が編纂された理由を説明できる。(難)

21. 『万葉集』の特色を説明できる。

22. 大学・国学設立の目的と、そこで学ばれた教科を説明できる。

23. 南都六宗の形成や、その活動を説明できる。

24. 鎮護国家について説明できる。

25. 鑑真と行基の活動を説明できる。

26. 国家の保護・統制下に置かれた仏教のありかたと、仏教の新たな動きを説明できる。

27. 寺院の一部には移築された建築物があるが、そうした建築物が研究上どのように重要なのかを説明できる。


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【解答例】

1. 唐の地方官が中央から派遣されていたのに対して、郡司には律令制以前に国造としてヤマト政権に服属していた伝統的な地方豪族が任命された。地方行政は彼らの伝統的な支配力に追うところが多く、律令制下の官僚でありながら、郡司には任期がなく、官位相当が適用されない、職分田も国司よりも多いといった、かつての在地首長としての特権が認められていた。

2. 国家的・社会的秩序を守るために、有位者でも減免しない八虐が定められた。

3. 戸籍は班田収授などのための基本台帳で、計帳は中央政府の財源となる調・庸を徴収するための台帳。

4. 6歳以上の男女に一定額の口分田が与えられ、死者の口分田は6年ごとの班田の年に収公された。

5. 調・庸を運脚で都に運ぶこと、雑徭で労役につくこと、兵役、および出挙が重かった。人頭税とは計帳をもとに人単位に税を徴収すること。

6. 唐が全盛期を迎えるなか、朝鮮半島新羅に統一されて、北方に興った渤海と勢力を争った。

7. 唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらした。

8. 唐との交流によって先進的な政治制度が移入され、唐の文化や唐経由でもたらされた西域の文化の影響を受けた天平文化が花開いた。新羅渤海とも活発な交流がなされ、経済面での貿易としての側面も大きかった。

9. 平城京は唐の長安をモデルとし、碁盤目状に東西・南北に走る道路で区画される条坊制をもっていた。東に張り出す外京をもっていたのが特徴である。

10. 市は左京と右京に設けられて、東西の市司が監督した。市では、地方から運ばれた産物、官吏たちに現物給与として支給された布や糸などが交換された。

11. 国衙はおおよそ全国一律・画一的な構成で造営された。当初は掘立柱で、8世紀後半から9世紀に礎石建物になった。郡家の配置は地方によって異なり、画一化されていなかった。なお、基本的に掘立柱であった。

12. 東北地方へは、7世紀後半から9世紀に至るまで、軍事侵攻を繰り返した。南九州では8世紀初めに薩摩・大隅国をおき、それ以降隼人の反乱はみられなかった。

13. 藤原不比等は娘の宮子を文武天皇に入内させ、娘の光明子をのちの聖武天皇に入内させた。長屋王の変皇親勢力が失墜すると、藤原四子が実権を握って、光明子を皇太后とした。

14. 藤原広嗣の乱などの政治不安や、疫病・飢饉などの社会不安を背景に、聖武天皇は、仏教のもつ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとした。

15. 当時の権力者は天皇との密接な関係によって、個人的な後ろ盾を得ることによってその権力を維持することができた。道鏡孝謙太上天皇の看病にあたったことをきっかけに孝謙太上天皇の後ろ盾を得るに至った。

16. 夫と別姓で自分の財産を所有しており、強い発言力をもっていた。

17. 722年の百万町歩開墾計画の失敗の翌年、三世一身法を出した。その後、743年に墾田永年私財法を出して土地支配を強化したが、一方で初期荘園拡大の契機ともなった。

18. 浮浪・逃亡や偽籍によって籍帳が有名無実となり、国司の徴税に支障をきたすようになった。

19. 最新の知識を吸収するために派遣した遣唐使が、盛唐文化や、唐を経由した西域の文化をもたらした。

20. 政府の立場から統治の由来や国家の形成・発展の経過を示した『古事記』は、日本語を漢字の音・訓を用いて表記したものであったため、中国と同様の律令国家を確立して国家意識を高揚させるためには中国にならって漢文の正史を編纂する必要があったため、『日本書紀』を編纂した。

21. 天皇や宮廷歌人の歌だけでなく、東国民衆の歌なども収録されているため、当時の言葉がよく分かる。

22. 貴族の子弟などのための官吏養成学校で、明経道明法道・音・書・算などが教えられた。

23. 南都六宗とは、奈良の大寺院でさまざまな仏教理論の研究をおこなっていた学僧の集まりであり、次第に学派のようなものを形成した。それらは国家の保護と統制を受けて、国家のために法会などを行った。

24. 鎮護国家の思想とは、仏教によって国家の安定をはかるという思想。

25. 唐から来日した鑑真は戒律を伝え、行基は民衆布教や社会事業を行ったのち、大仏造立にも協力した。

26. 仏教は厳しい統制を受けて、僧侶の活動も寺院内に限られた。また、仏と髪とは本来同一であるとする神仏習合思想がおこった。

27. 聖武天皇の夫人、橘古那可智の邸宅が移築された法隆寺伝法堂からは、天平期の貴族住宅の様子が分かり、平城宮の東朝集殿が移築された唐招提寺講堂からは、平城宮の宮殿建築の様子が分かる。


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