top of page

歴史部|戦国大名の登場と分国支配

2 日前
読了時間: 8分
歌川芳綱《西条山引返之図》。江戸後期に描かれた川中島合戦の錦絵。メトロポリタン美術館蔵(JP1115.7a–c)。

重要なポイント


・戦国大名の登場と各地域における勢力拡大の経緯を確認した。

・戦国大名の支配構造(貫高制・寄親寄子制・村落支配)について解説した。

・生徒からの質問を通じて、古河公方の移転理由、長宗我部氏と香宗我部氏の関係、北条氏への改姓の経緯、川中島の戦いが長引いた理由など、多岐にわたるテーマを深掘りした。


議論されたトピック


戦国大名の登場(各地域の概観)


Aさん、Bさん、Cさん、Dさんが順番に音読し、全国各地の戦国大名の台頭を確認した。


・詳細

Aさん:応仁・文明の乱後も幕府内部の主導権争いが続き、1493年の明応の政変で将軍権威が低下。細川氏・三好長慶・松永久秀と権力が移行し、室町幕府は滅亡の危機に直面した。

Bさん:東国では享徳の乱を契機に鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分裂。関東管領上杉氏も山内・扇谷に分裂し、その混乱に乗じた伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆・相模へ進出し、北条氏康の代に関東の大半を支配する大名へ成長した。

Cさん:中部では武田信玄が甲斐から信濃へ、越後では長尾為景の系譜から上杉謙信が関東管領職を継承。両者は川中島で繰り返し衝突した。東海では今川氏、東北では伊達氏が台頭した。

Dさん:中国地方では毛利元就が出雲の尼子氏を圧倒し勢力を拡大。九州では島津氏、四国では長宗我部氏が統一を進め、各地に戦国大名が並び立った。

・結論

全国各地で守護・守護代・国人層から実力で台頭した戦国大名が一定領域の統一を進めた。


古河公方が古河に移った理由


Cさんが「なぜ鎌倉から古河に移ったのか」と質問し、のぶた先生が地理的・歴史的背景を説明した。


・詳細

Cさん:鎌倉公方が古河に移って古河公方と呼ばれるようになった経緯が不明。

のぶた先生:足利成氏は上杉氏との抗争中に鎌倉を失い、1455年に古河を拠点とするようになった。古河には河川交通や周辺領地・支持勢力との結び付きがあり、拠点としての条件があったと考えられる。

・結論

鎌倉を失った軍事情勢に加え、河川交通や周辺領地・支持勢力との結び付きが、古河定着の背景にあったと考えられる。


長宗我部氏と香宗我部氏の関係


Eさんが「長宗我部氏と香宗我部氏はどういう関係か」と質問し、のぶた先生が辞書で調べながら解説した。


・詳細

Eさん:四国に長宗我部氏と香宗我部氏が存在するが、両者の関係が不明。

のぶた先生:両氏はもともと別の家で、名字の類似だけでは同祖とはいえない。長宗我部元親の弟親泰が香宗我部氏に養子入りし、一門として結び付いた。

・結論

長宗我部氏と香宗我部氏は別々の家であり、親泰の養子入りによって一門として結び付いた。名字が似ていることだけでは、同じ祖先を持つとはいえない。


毛利元就が大内氏から離反した経緯


Fさんが「陶晴賢(大内義隆を死に追いやった人物)と毛利は当初対立していなかったはずだが、なぜ後に対立したのか」と質問した。


・詳細

Fさん:陶晴賢のクーデター時、毛利は大内方についていたと思うが、その後どういう経緯で対立したのか。

のぶた先生:毛利氏は大内方として勢力を伸ばし、1541年には尼子軍を撃退した。1551年の大内義隆の死後、陶晴賢と対立し、1554年の断交を経て1555年の厳島合戦で陶氏を破った。毛利氏の勢力拡大と陶氏との関係悪化を背景に対立が深まった。ただし、具体的な対立要因については複数の出来事を確認する必要がある。

うえまつ先生:大内義隆が死去したのは1551年と補足。

・結論

毛利氏は大内方として勢力を伸ばした後、陶氏との関係を悪化させ、1554年の断交を経て1555年の厳島合戦で陶氏を破った。対立の背景は、一つの原因だけにまとめず考える必要がある。


北条氏への改姓の経緯と正当性


Gさんが「伊勢氏が北条氏に改姓する際、幕府の許可などが必要だったのか」と質問した。


・詳細

Gさん:支配者としての正当性を示すために改姓したとあるが、そのような改姓は自由にできるものなのか。

のぶた先生:伊勢宗瑞の子氏綱は1523年に北条を名乗った。鎌倉北条氏を意識し、関東支配の正当性を示す政治的意味があったと考えられる。改姓は政治的な働きかけを伴う問題でもあり、幕府の許可が不要だったと一律には断定できない。北条改姓と朝廷・公家との交渉の関係も考える必要がある。

うえまつ先生:氏綱の系譜に関する伝承を補足。ただし、母と妻に関する系譜・伝承は区別する必要がある。

のぶた先生:氏綱の母と妻に関する系譜・伝承は区別が必要であり、鎌倉北条氏との血縁を改姓の確定根拠とはできない。

・結論

北条への改姓には関東支配の正当性を示す政治的意味があったと考えられる。許可の要否を一律には断定せず、朝廷・公家との交渉も考慮する。鎌倉北条氏との血縁を改姓の確定根拠とはできない。


戦国大名の支配構造(貫高制・寄親寄子制・村落支配)


Fさん、Eさん、Gさんが該当箇所を音読し、戦国大名の支配の仕組みを確認した。


・詳細

Fさん:戦国大名は家臣団を編成し、土地からの収入を銭の単位で評価する貫高制によって知行や負担を把握した。軍役を課すことで軍事制度の基盤を整えた。

Eさん:地侍は有力家臣のもとに寄親・寄子関係でまとめられ、鉄砲・長槍を用いる集団戦法にも対応できる軍事体制が整備された。

Gさん:北条氏などの大名は検地による負担把握を進め、家臣の非法を抑えて村落秩序を維持しようとした。個別政策の時期には注意が必要である。

・結論

戦国大名の支配は、貫高制による家臣への所領保障・軍役賦課、寄親寄子制による軍事組織化、検地による村落支配強化の三つを結びつけることで成立していた。


寄親・寄子制の意味


Hさんが「寄親・寄子とは何か」と質問し、のぶた先生が具体例を挙げて説明した。


・詳細

Hさん:「寄親・寄子」という語句の意味が不明。

のぶた先生:寄親は寄子をまとめて指揮する立場、寄子はその指揮下に編成された武士を指す。寄子が大名の直臣である場合もあり、寄親の家臣とは限らない。織田信長のもとで柴田勝家や羽柴秀吉などの有力家臣に武士を配属するイメージを例にした。ドラマの人物関係を手掛かりに説明したが、秀吉・秀長の実際の立場は時期と史料を確認する必要がある。

・結論

寄親・寄子は武士をまとめる指揮関係であり、寄子が寄親の家臣とは限らない。大名との主従関係や、鎌倉時代の惣領制と混同しないよう注意が必要。


貫高制と石高制の違い・インフレ・デフレの影響


Gさんが「貫高制と石高制の違い」および「デフレ・インフレが起きた場合の影響」について質問した。


・詳細

Gさん:貫高制と石高制はどう違うのか。

のぶた先生:貫高制は銭、石高制は米の量を基準として土地の価値や負担を表す。石高制は太閤検地などを通じて全国的に整えられたが、石高と実収入は同じではない。

Gさん:デフレ・インフレが起きた場合、石高制では武士の実質収入はどう変わるのか。

のぶた先生:米で収入を得る武士は、生活費をまかなうために米を売ることがあった。武士の収入形態には知行地や蔵米などの違いがある。同じ量の米でも、米価が生活用品の価格に比べて下がれば、換金して買える物が減る。米価の変動と一般的なインフレ・デフレは区別する必要がある。

・結論

貫高制は銭、石高制は米量を基準に評価するが、評価額と実収入は同じではない。米で収入を得る武士の暮らしを考える際は、米価と生活用品の価格の関係が重要となる。


実際の戦闘の実態(大河ドラマとの比較)


Gさんが「大河ドラマのような激しい切り合いは実際にあったのか」と質問した。


・詳細

Gさん:実際の戦は小競り合い程度だったという話を見たことがあるが、実際はどうか。

のぶた先生:軍忠状などの負傷記録の研究から、弓矢や鉄砲が戦闘で重要な役割を果たしたことが分かる。刀と槍の役割や時代差も区別して考える必要がある。ドラマの切り合いだけで合戦全体を理解することはできない。ただし、負傷記録だけで野戦や白兵戦の頻度を断定することもできない。

・結論

合戦では弓矢や鉄砲も重要だった。刀と槍、時代、史料の性格を区別し、ドラマの描写や負傷記録だけから合戦全体を一般化しないことが大切である。


川中島の戦いが長引いた理由


Gさんが「川中島の戦いはなぜ長引いたのか」と質問し、のぶた先生が遠征の条件を説明した。


・詳細

Gさん:川中島の戦いがなぜ五回も繰り返されたのか。

のぶた先生:川中島では1553〜1564年に五回の対陣があったとされるが、すべてが同じ規模の決戦だったわけではない。積雪や農事、補給などは出兵を制約したが、冬季出兵や長期遠征が一律に不可能だったわけではない。決着しなかった理由は軍事・外交条件も含めて考える必要がある。

・結論

五回の対陣を同じ規模の決戦とみなすことはできない。積雪・農事・補給の制約に加え、軍事・外交条件を合わせて考える必要がある。


阿波の藍染の現状(余談)


のぶた先生が、学会での驚きとして阿波の藍染の現状を共有した。


・詳細

のぶた先生:学会で阿波藍の担い手や技術継承の課題を知り、驚いたことを共有した。農家・藍師・染色業者は区別し、人数や全国シェアの具体的な数字は確認できる資料に基づいて扱う。

・結論

阿波藍の担い手や技術継承の課題にも話題が広がった。農家・藍師・染色業者の違いと、数字の対象や時点を区別して理解する必要がある。


画像:歌川芳綱《西条山引返之図》(1847〜1852年頃)、The Metropolitan Museum of Art(JP1115.7a–c)/Public Domain。後世の錦絵。

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/893323

コメント


bottom of page