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歴史部|護憲三派内閣と普通選挙・治安維持法

18 時間前
読了時間: 8分

重要なポイント

・大正時代の政治史(護憲三派内閣・普通選挙法・治安維持法)について学習した

・清浦奎吾内閣の「超然内閣」としての性格について議論が行われた

・普通選挙法と治安維持法が同時期に制定された背景・意義を確認した

・「憲政の常道」の概念と二大政党制の流れを整理した

議論されたトピック

高橋是清内閣後の官僚系内閣の流れ

高橋是清内閣崩壊後、加藤友三郎内閣・第二次山本内閣・清浦奎吾内閣と約2年間にわたり官僚系内閣が続いた経緯を読み合わせ形式で確認した。

・詳細

・Bさん(読み上げ担当): 高橋是清内閣後、立憲政友会は党内対立により政権を安定維持できなかった。加藤友三郎はワシントン会議の全権として海軍軍縮条約を支持した穏健な軍人であり、普通選挙制導入の検討も始めた

・Bさん: 関東大震災の翌日に第二次山本内閣が成立し、その後、虎ノ門事件が起こると内閣は総辞職した

・結論

・高橋是清内閣崩壊後、約2年間にわたり官僚系内閣が続いたことが確認された

高橋是清内閣における立憲政友会の党内対立の内容

Aさんの質問を受け、立憲政友会内の具体的な対立内容について議論・調査が行われた。

・詳細

・Aさん: 「立憲政友会は党内の対立によって政権を安定して維持できなかった」という記述について、具体的にどのような対立だったのかを質問した

・のぶた先生: 辞典や資料を参照したが、内部対立があったこと以上の具体的な内容をその場では特定できなかった

・結論

・のぶた先生が宿題として詳細を調査することになった

第二次護憲運動と清浦奎吾内閣の成立

Cさんの読み上げを中心に、清浦奎吾内閣の成立経緯と第二次護憲運動の展開を確認した。

・詳細

・Cさん: 松方正義と西園寺公望が政党から距離を置く人物として枢密院議長の清浦奎吾を首相に推した。清浦が貴族院勢力を中心に組閣したことに反発した憲政会・立憲政友会・革新クラブの三党が第二次護憲運動を展開した

・Cさん: 清浦内閣は衆議院を解散して総選挙に臨んだが、護憲三派が多数を占め、清浦内閣は退陣した

・結論

・第二次護憲運動の結果、清浦内閣が退陣し、護憲三派内閣が成立した

護憲三派内閣の成立と加藤高明内閣の政策

Aさんの読み上げを中心に、護憲三派内閣の成立と外交・内政方針を確認した。

・詳細

・Aさん: 衆議院第一党となった憲政会総裁の加藤高明が首相となり、立憲政友会・革新クラブを加えた三党連立政権(護憲三派内閣)を樹立した

・Aさん: 加藤高明内閣は、明治憲法下で総選挙の結果を受けて成立した政党内閣として取り上げられた

・Aさん: 外交面では幣原喜重郎外相を中心に列強との協調路線を取り、1925年には日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立した

・結論

・護憲三派内閣はワシントン体制を前提とした現実的な外交路線を継承した

普通選挙法の成立

Dさんの読み上げを中心に、普通選挙法の内容と背景を確認した。

・詳細

・Dさん: 1925年に普通選挙法が成立し、衆議院議員選挙の納税要件が撤廃され、原則として満25歳以上の男性に選挙権が認められ、有権者数は約4倍に増加した

・Dさん: 普通選挙運動は1919〜1920年に都市を中心に高揚し、1920年代前半には農村にも広がった

・結論

・制限選挙から普通選挙への移行により、大衆の政治参加が新たな段階に入った

治安維持法の制定

Eさんの読み上げを中心に、治安維持法の内容・背景・意義について議論が行われた。

・詳細

・Eさん: 治安維持法は国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織・加入などを取り締まる法律であり、社会主義・共産主義運動を抑圧する性格を持っていた

・Fさん: 治安維持法に反対した人はいたのかを質問した

・のぶた先生: 共産主義者など取り締まられる側の人々は当然反対しており、1922年には先行する法案が成立しなかった経緯がある。1925年4月22日に公布された

・うえまつ先生: 1922年の先行法案は成立せず、1923年には震災後に緊急勅令の治安維持令が出され、1925年に治安維持法が成立したと補足した

・Cさん: 護憲の立場と治安維持法制定は矛盾しないかを質問した

・のぶた先生: 当時の憲法体制を守るという護憲勢力の立場からは、共産主義の取締りは矛盾しないと説明した

・Cさん: 「労働者階級の政治的影響力が増すことに備えた」という記述に農村が含まれていないのはなぜかを質問した

・のぶた先生: 農民の影響力増大も含まれるとし、都市での運動に説明の重点を置いた表現ではないかとの見方を示した

・結論

・普通選挙法の成立や日ソ国交樹立と関連して、共産主義の波及への警戒から治安維持法が制定された

・制定当初の最高刑は懲役または禁錮10年で、1928年には国体変革を目的とする結社の組織者・指導者への最高刑が死刑に引き上げられた

憲政の常道と政党政治の展開

Fさん・Gさんの読み上げを中心に、護憲三派解消後の政党政治の流れを確認した。

・詳細

・Fさん: 立憲政友会が田中義一を総裁に迎えて革新クラブの合流を受け、その後、護憲三派の提携は解消された。加藤高明が病死後、若槻礼次郎が後継となり、1926年末に大正天皇が崩御して昭和に改元された

・Gさん: 1924年の加藤高明内閣成立から1932年の犬養毅内閣崩壊(五・一五事件)まで、立憲政友会と憲政会(後の立憲民政党)が交代で内閣を組織する慣行が続いた。これを「憲政の常道」という

・結論

・憲政の常道は、二大政党を中心とする政党内閣の継続と、政権交代の慣行を示すものとして整理された

超然内閣の定義をめぐる議論

Cさんの疑問を発端に、超然内閣の定義について辞書を参照しながら議論が行われた。

・詳細

・Cさん: 清浦内閣は貴族院勢力を中心に組閣しているため、「内閣だけで進める」超然内閣とは言えないのではないかと疑問を呈した

・うえまつ先生: 「超然」という言葉の意味(物事にこだわらず平然としている様、俗世間に関与しない様)を辞書で確認した

・のぶた先生: 日本大百科全書では「政党に基礎を置かず超然主義に立った内閣」、デジタル大辞泉では「議会政党の意志に制約されることなく政治を行った」と定義されていることを共有した

・のぶた先生: 黒田清隆の超然演説(「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立つ」)が超然内閣という言葉の起源であると説明した

・のぶた先生: 定義を「政党の影響を受けない」と取るか「議会の影響を受けない」と取るかによって判断が変わると整理した

・結論

・黒田の演説に立ち返り、政党を基礎とせず政党の外に立つという意味から、清浦内閣を超然内閣とする説明は妥当と整理された

・言葉の定義・物差しに立ち返ることの重要性が強調された

革新クラブの位置づけと各政党の関係

Hさんの質問を受け、革新クラブと二大政党の関係について説明が行われた。

・詳細

・Hさん: 革新クラブが立憲政友会に吸収された経緯と、憲政会・立憲政友会のどちらが大きいかを質問した

・のぶた先生: 政友会を大きな政党として現在の自民党になぞらえる説明があった。立憲政友会は板垣退助の自由党系、憲政会は大隈重信の立憲改進党系の流れをくむと説明した

・のぶた先生: 革新クラブは少数政党であり、立憲政友会への吸収は対等な合併ではなく、大きな政党に少数派が入っていく形であると説明した

・結論

・革新クラブは、政友会・憲政会とともに護憲三派を構成した少数政党であり、政友会への合流について議論された

清浦奎吾が首相に選ばれた理由

Hさんの質問を受け、清浦奎吾が首相に選ばれた経緯について議論・調査が行われた。

・詳細

・Hさん: 清浦奎吾はなぜ首相に選ばれたのかを質問した

・のぶた先生: 枢密院議長から総理大臣になるルートは特殊であり、それだけ他に適任者がいなかった可能性があると述べた。山県有朋系の反政党勢力として長くキャリアを積んできた人物であると説明した

・うえまつ先生: 小学館の日本大百科全書によると、近く予定されていた総選挙を党派に関係なく公平に行うこと、ご成婚式を政争の具にしないことの2点を考慮して、政党政治家を避けて枢密院議長を後継首相に推薦したと補足した

・のぶた先生: 政党に任せられないという判断から清浦が選ばれたが、それが逆に政党の反発を招いたと整理した

・結論

・清浦奎吾は選挙の公平性確保と政争回避を理由に、政党政治家を避ける判断の下で枢密院議長として推薦された

「青年党」の意味

Aさんの質問を受け、テキスト中の「青年党などの活動」という記述の意味について議論が行われた。

・詳細

・Aさん: 護憲三派が多数を占めた選挙の記述中にある「青年党などの活動」とは何かを質問した

・のぶた先生: 大日本青年党(橋本欣五郎)は二・二六事件以降の話であり、この時期とは異なると判断した

・うえまつ先生: 百科事典には青年アイルランド・青年イタリア・青年ドイツ・青年トルコなどの組織が掲載されており、当時の日本人もこうした命名に影響を受けていた可能性があると補足した

・のぶた先生: 一つの「青年党」という政党ではなく、若者が作った政治結社の総称であり、東大新人会なども含まれる可能性があると説明した

・結論

・「青年党」は当時の若者による政治結社を指すものとして検討したが、具体的にどの団体まで含むかは確定しなかった

勲章を着用した加藤高明の上半身の肖像写真。

画像:加藤高明(撮影者不詳)。外務省掲載写真/Wikimedia Commons「Kato Takaaki.jpg」(Public Domain)。

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