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Q&A

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中世フランス王国の教会課税について

これまで積み残してきた宿題を、いくつかの記事に分けて片付けます。


質問:「フランス王フィリップ4世の「教会課税」とは、具体的にどのようなものだった?

(質問の前提となる歴史的知識については、青木先生の『実況中継第2巻』84ページを参照)


以下、参考となる学術論文から引用します。出典は、小梁吉章「フィリップ4世の貨幣革命」(『広島法科大学院論集』17号、p23~24)。

https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/record/2036362/files/HiroshimaLawRev_17_1.pdf


 「特別財政〔補注:領地(王領)収入の「経常財政」とは異なる、14世紀中ごろから呼ぶようになった新たな税収・財政手段〕」の主たる財源が聖職者に対する課税である。これが教皇ボニファティウス8世の怒りを招き、「贋金作り」の悪罵を惹き起こした原因である。これには教会財産に対する「負担償却」と「聖職禄十分の一税」がある。

 負担償却」とは一種の財産譲渡税である。封建制の時代には諸侯も民衆も魂の救済を教会に頼り、財産を寄進することになった。……そこでフィリップ3世は1275年末に「負担償却王令」を発し、後継者フィリップ4世も1291年末の王令で制度を踏襲した。現代の財産譲渡税や不動産登録税に類似するが、実質的には王権が教会財産に手を伸ばすことで、国王がその主権に服する者に課税した。

 次に聖職禄十分の一税」という聖職者課税である。これは所有財産に対してではなく、フローの収入の十分の一の支払いを求めるものであった〔補注:ここで言う「フロー(flow)の収入」とは、教会の財産(stock)ではなく、聖職者が一定期間に得られた収入のことを指す〕。フィリップ4世は聖職者にも課税したが、これはこの王が初めてではなく、すでに1147年にルイ7世が行っていた。十分の一税という呼称は、フィリップ2世の第三次十字軍出征時の「サラディン十分の一税」に因む。この税は聖地回復の旗印の下で行われ、その際に教皇は限定的にこれを認め、13世紀には聖地回復のための十分の一税がよく行われ、第四次十字軍の成果に不満なインノケンティウス3世は第五次の準備のため1215年に聖職者に三年間、収入の二十分の一を奉納するように命じ、この税はルイ9世の第七次、第八次十字軍の出陣資金となり、1245年に教皇インノケンティウス4世はフランスの全教会に五年間、収入の十分の一の納付を命じた。従来、この税は聖地回復と異端撲滅を目的とした十字軍の派遣費用に充てられ、フィリップ4世もまず1294年当時のアラゴン十字軍のために徴税し、これは教皇が命じたものであったから教皇ニコラウス4世はこの徴税を認めた。また王は1294年春「6千リーブルの収入のない者は金銀の食器の所有を禁ずる。まずその三分の一を供出すること」を命じ、1302年8月に国内各地の代官に銀の食器を鋳造所に送るように命じ、また1303年には各地の国王代官に金銀が国外持ち出しの監視を命じた。これらの金銀の輸出禁止令はローマ教会にとっては痛手であった。オリヴィエ=マルタン教授は当時金銭的に価値のあるものは金銀だけであり、これを国外に持ち出せないことはローマの教皇にとってフランスから収入を得ることができないことを意味し、「甚だしく厳格な諸処置」であったとしている。


以上を総合すると、①財産譲渡税に相当する「負担償却」、②収入の十分の一を支払う「聖職禄十分の一税」、それに課税とは異なりますが、ローマ教会への経済的流出を防ぐ策として③「金銀輸出禁令」が挙げられます。

これによって、フランス王とローマ教会の関係が悪化し、「三部会(全国三部会)の開催」「アナーニ事件」にいたる訳ですね。

ちなみに、この論文の注釈ではいつくかの研究者の論文を引用していますが、1つだけ紹介〔26ページ、注68〕。


 ヘント大学のローラン教授(1810-1887)は「14世紀初めフィリップ4世は三身分会議に第三身分を招集し、立憲君主制が始まった」としている。ブライス教授は14世紀初頭のフィリップ4世と教皇との対立が近代国家の始まりとしている。

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うえまつ先生
Aug 26, 2025

そうです。

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