異国船打ち払い令が発令された時の 各大名の大砲の所持率はどれぐらいなんですか?
寛政3年(1791年)に刊行された、林子平の『海国兵談』には、以下のような有名な文があります。
長崎には厳重に石火矢(※安土桃山時代レベルの大砲)の備え有りて、かえって安房、相模の海港にその備えなし。このこと、はなはだ不審なり。細かに思えば、江戸の日本橋より唐(※中国)、オランダまで境なしの水路なり。しかるを、これ(※安房・相模、すなわち江戸湾の入口)に備えずして長崎にのみ備うるはなんぞや。
『海国兵談』からは、日本で一番大事な江戸の入口すら大砲の備えがなくて、長崎にしか大砲の備えがないことが分かります。このことから、長崎よりも大砲を持っている大名なんていないことが予想されますので、長崎を真っ先に調査するのがいいと思います。
いわゆる鎖国の間、幕府の直轄地である長崎には長崎奉行が置かれ、長崎の警備は福岡藩と佐賀藩が交代で担っていました。
1640年代にいわゆる鎖国をして、オランダ人の来航地を出島に限ったとき、佐賀藩と福岡藩は大坂城にあった幕府の石火矢を十挺と、大筒二十挺を貸し与えられました。

『長崎県史 体外交渉史』によると、慶安元年(1648年)に一部は幕府に返上したようです(『佐賀県史』)。なお、幕末近く(1840年代、すなわち異国船打払令より後)になって西洋式の反射炉で西洋式の新型大砲を作り出す前の日本の大砲とか、手で持つ大筒程度の笑えるしろものです。「石火矢」は大友宗麟で有名なフランキ砲とかで、「大筒」は石火矢よりも小さいです。
その後の100年弱で、以下のように少し軍備は増強されました。
寛永18年(1641年)に、石火矢14挺、大筒20挺。
承応3年(1654年)に、銅石火矢10挺、鉄石火矢7挺、大筒20挺。
寛文10年(1670年)に、銅石火矢18挺、鉄石火矢17挺、大筒20挺。
享保元年(1716年)に、銅石火矢18挺、鉄石火矢17挺、大筒20挺。
(『新長崎市史 第二巻近世編』)

18世紀前半の『崎陽群談』によると、幕府から貸し与えられてきた武器の数は、石火矢が35挺(唐金(青銅)18挺、鉄17挺)で大筒が20挺です。幕府から貸し与えられてきた武器は天草の乱とかで没収したものや、海から引き上げたもので、1650年代には使い物にならないものが多かったそうです(『長崎県史 対外交渉史』)。こういったのが寛政の改革が終わった後まで150年も放置されているんだから、いかに長崎の大砲事情が貧相だったのかがうかがえます。
寛政の改革の最後に松平定信が少し危機感をもって、沿岸警備を沿岸諸藩(←これはちゃんと確定しておきたいところなんだけど、また今度)に命じました。ロシア人ラクスマンが根室に来て、松平定信が失脚した三年後の寛政七年(1792年)、佐賀藩と福岡藩は39挺の石火矢のうち、27挺をつくりなおすことにしました(『佐賀県史』)。
松平定信は、諸大名に海岸の防備を命じ、特に蝦夷地(北海道)に関わる松前・南部・津軽藩には蝦夷地の防衛を強化するように命じました。ラクスマンの来航の後には、松平定信は相模・伊豆を巡察しています。ただ、松平定信の防衛策は同年に定信が失脚したときに中止となっていますし、次に見る15年後の長崎の情況から鑑みるに、諸大名はまともな軍備増強はしていないと推察できます。
文化5年(1808年)における、フェートン号事件の年の長崎港の警備担当は、佐賀藩でした。しかし、佐賀藩の守備兵は百数十人しかおらず、戸町・西泊両番所の砲も11門しかなかったそうです。おいおい、27挺つくりなおす話はどこいった、って感じですね。それに対して、イギリスのフェートン号は一隻で乗組員350名、48門の砲を装備していました。もちろん、砲そのものの性能も優れています。事件後に、長崎の砲台は増築されて、大砲wは124門に増やされました(『藩史大事典 第7巻・九州編』)。数に関してだけ言えは、やればできるじゃんって感じですね。
『佐賀県の歴史 県市41』によると、7箇所あった台場は21箇所に増やされました。124門の大砲の内、60門は幕府の財布から、74門は佐賀藩と福岡藩の財布で整えたそうです。『新長崎市史 第二巻近世編』を参考にすると、ほとんどが大筒よりは少し大きめの石火矢だったようです。まあ、しょせん「大砲w」ですが。
ここまで、全部西洋式の反射炉で鉄の新型大砲を作る時期(1840年代、すなわち異国船打払令より後)よりも前の話です。てか、異国船打払令(1825年)の段階がテーマなので、今後もそうです。なお、反射炉が登場して幕末にかけていえば、全国で何百という大砲が作られる時代になります。
以上により、異国船打払令当時、間違いなく日本で一番大砲wの備えがあった長崎で124門ほどだったことが分かります。
ほかに大砲を多めに備えていそうな場所は、相模・伊豆・安房・蝦夷地といったところなのでしょう。
静岡県、神奈川県、千葉県、北海道、青森あたりの大砲wの数まで分かれば、長崎とそれらで日本全国の8~9割ぐらいを占めると考えていいと思います。予想としては、200~300門程度といったところでしょうか。
機会をみて、静岡県、神奈川県、千葉県、北海道、青森あたりも調べてみたいと思います。
【参考文献】
『佐賀県史』中巻・近世編(佐賀県史編さん委員会編・1968年)
『新長崎市史 第二巻近世編』(長崎市・2012年)
『藩史大事典 第7巻・九州編』(木村礎・藤野保・村上直編・雄山閣・2015年)
『佐賀県の歴史 県市41』(杉谷昭・山川出版社・2014年)
『長崎県史 対外交渉史』(長崎県史編纂委員会編・1985年)
おしまい
