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Q&A

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織田信長が境を屈服させるときに戦は起きなかったの?

永禄十一年(1568年)、信長が三好党を蹴散らして足利義昭とともに上洛すると、かねてより三好党と仲が良く足利家と仲が悪かった堺は町を囲む堀を拡充して、櫓と壁を強化しました(『己行記』『天王寺屋会記』)。また、他の自治都市・平野と連携して信長に対抗しようともしました(『末吉文書』)。

上洛した信長は、副将軍か管領にならないかという義昭の打診を蹴って(『信長公記』)、大津・草津・堺に代官を置くこと(支配下に置くこと)を決めて(『甫庵信長記』)、堺に対して二万貫の矢銭(軍事費)を課すことにしました(『細川両家記』)。

これに対して、堺は信長の要求を蹴って、合戦の準備を始めました(『重編応仁記』)。

しかし、信長は堺攻めには出ず、岐阜に戻ります。


永禄十二年(1569年)、将軍義昭が三好党に襲撃されたときに京に急いで上ってきた信長は、堺とつながっている三好党を京から追い散らして、堺に対しても「三好に味方したオマエらを堺ごと焼き尽くしちゃうぞ♡」と恫喝しました(『武徳編年集成』)。

頼りにしていた三好党が何度も信長にボロ負けしたのを見た堺は観念して、二万貫を信長に収めました。信長はこれを赦しました。


というわけで、堺を屈服させるときには、戦は起きなかったということです。


参考文献の該当記事を書いた橋場日月は歴史学者ではありませんが、典拠となる史料をあげているし、堺の屈服は有名な話なので、まずは従っておいていいと思います。もちろん、大学生のゼミ以上のレベルになったら、自分で史料を確認する必要がありますよ。


参考文献: 『信長と織田軍団 戦国を席巻した天下布武の軍容』(新歴史群像・学研プラス・2008年)

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金澤和央
金澤和央
Aug 29, 2024

ありがとうございました。スッキリしました

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