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Q&A

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宣旨枡はどのような地域、階層の者まで使用していたのか?

後三条天皇の延久の荘園整理令(1069年)によって定められた公定枡である宣旨枡は、

「公家・神社・仏寺関係の計量にしばしば使用され、鎌倉時代になると、京都のみならず、ほとんど全国にわたって、その用例が認められる」(国史大辞典)とあります。

また、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の建長四年(1252年)3月19日条に「能米卅石白米二石〈宣旨斗定〉大豆三石、〈同斗〉秣二百卅束、[標準領域(該当行)]能米三十石白米二石〈宣旨ノ斗定〉大豆三石、〈同キ斗〉秣二百三十束」などとあるように、鎌倉幕府の支配領域でも使用されていました。


ただし、村田修三氏が宝月圭吾『中世量制史の研究』をまとめたところによると、

国衙は国ごとに国衙枡を使っており、荘園でも荘園単位で庄斗を使用していました。

さらに室町幕府の時代に入ると、枡の地域差が拡大していったとされます。

そんで、戦国大名たちは枡の統一を目指しはじめ、豊臣秀吉の太閤検地の京枡で統一されました。


つまり、全国的に宣旨枡は使用されて、必然的に年貢を納める側の農民なども使用させられたようですが、宣旨枡以外の枡が駆逐された時代というものはなさそうでした。


参考文献:

村田修三「地域枡と地域権力」(『史林』55巻1号・1972年)

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