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平将門の乱

宿題:東アジアの動乱が平将門の思考に与えた影響が垣間見える史料の確認。



『将門記』所収「天慶二年十二月十五日 将門書状」の口語訳(訳は川尻秋生氏)

「……伏して、祖先を考えますと、将門は桓武天皇の五代の子孫です。たとえ日本の半分を占領したとしても、どうしてめぐり合わせがないといえるでしょうか。昔から軍事力によって天下を取った者は、皆歴史書にみえます。将門が天から与えられ(ママ。「た」抜けか)才能は、武芸にあります。思い計ってみますに、同輩の誰が武力で将門の肩を並べられるでしょうか。……」


上の史料の前半部分では、将門は血統の面から見ても将門は「新皇」になる正統性があると言っています。日本で天皇を規定しているのは血統なので、日本の正当性の論理から自分が「新皇(=新しい天皇)」になる資格があると主張しているわけです。

後半部分では、軍事力を持つものには天下(この場合は東国か?)を治めるものだと言っています。



さて、上の書状を書いた将門は弟に一度諌められますが、将門は「今の世の人は武力に優れた人物を君とするのだと反論し、契丹の前例を持ち出した。延長年中(九二三~三一)に契丹の大赦契王(大契赧王の誤り)が、武力により渤海を討ち滅ぼして、東丹(契丹)を建国したことを引き合いに出し」ました。

この部分が『将門記』筆者による文飾でなければ、将門の行動には東アジアの動乱が少しは影響を与えていると言えるかもしれません。


川尻秋生氏のまとめによると

「眼を東アジアに転じてみると、唐が九〇七(延喜七)年に滅び、九一八年には高麗が建国し、九三五年には新羅が滅亡した。そして、『将門記』にもみられるように、九二八年には、耶律阿保機が出て渤海を滅ぼし東丹国を建てた。十世紀に入ると同時に、動乱の時代へと突入した。幸か不幸か、日本は島国ということもあって、これらの影響を直接受けることはなかったが、代わりに平将門の乱と藤原純友の乱が、列島の東西で同時に起きた。」

とあります。


参考文献:川尻秋生『平将門の乱 戦争の日本史4』(吉川弘文館、2007年)

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