アムール川(黒竜江)流域の「山丹」について
宿題:テキスト179ページの地図にある「山丹」って、どんな人達?
まずは国史大辞典から
「山丹人(さんたんじん)」の項
江戸時代、樺太へ交易を目的に渡来する黒竜江下流域の住民をサンタン(山丹・山旦・山靼)人とよんでいた。
「山丹交易」の項
黒竜江下流域の住民である山丹人は、満洲官人から賞賜された品物や、同時に木城で開かれる交易市場で満洲人から得た物資、すなわち古官服・錦・綿織物・玉・煙管・扇・銭などの中国品をもたらして樺太へ渡り、カラフト=アイヌや北海道の宗谷アイヌを相手に、貂・水獺・狐などの毛皮とか、日本の鉄製品(鍋・針・斧など)・酒・米・煙草その他と交易した。中国製品の古官服の一部や錦は、アイヌから日本人の手に渡り、蝦夷錦とよばれて珍重された(蝦夷錦ははやくも十二世紀中ごろの『中外抄』に「えぞいはぬ錦」とみえている)。
←蝦夷錦は有名な織物です。ビジュアルについてはWikipedia「蝦夷錦」を参考にしてください。
谷本晃久「列島北方の社会と交流 ーアイヌ史の観点からー」(牧原成征編『日本史の現在4 近世』山川出版社、2024年)によると、清国の三姓副都統にアイヌが毛皮を貢納して、三姓から官職を得たときに授けられる官服もあったそうです。山丹交易には民間相手のものと、清国の公的機関相手のものがあったようです。
「さんたん‐ぎれ 【山靼切・山丹切】」の項
黒龍江下流に住む山靼人と、樺太アイヌ・北海道宗谷アイヌとが交易し、その際に伝わった中国(明末清初頃)産の錦。蝦夷錦(えぞにしき)。
次に、浪川健治『アイヌ民族の軌跡(日本史リブレット)』(山川出版社、2004年)によると、
「サンタン人と呼ばれたアムール川下流域の住民(現在のウリチにつながる人びと)」(31p)
とあります。
ウリチは、「ロシア連邦の極東地域,ハバロフスク地方に住む先住民で,自称はナニ。人口3200(1989)。居住地はアムール川の下流域にあたり,……ツングース・満州語派に属するナナイ語に近縁のウリチ語を話し……」とのことです。Wikipedia「ウリチ」も参考になるでしょう。
というわけで、山丹は、アムール川流域のツングース系の人々のことだということです。
12世紀の『中外抄』に蝦夷錦が出てくることや、奥州藤原氏とかの時代にも北方からの交易品や大陸の人の話が登場する記憶があったので、斉藤利男『奥州藤原三代(日本史リブレット人)』(山川出版社、2011年)も調べてみました。
ありました。思い出しました。藤原清衡の中尊寺願文でした。
中尊寺願文の中で、清衡は「粛慎・挹婁といった海外の者どもも我に従っていておる」と、奥州藤原氏の勢力圏を主張しています。
ここに出てくる「粛慎(しゅくしん)」と「挹婁(ゆうろう)」は、サハリン(とおそらくは沿海州:古川)方面の人々を指すと考えられています。
交易品は、鷲羽、水豹皮、貂皮などでした。
斉藤利男『奥州藤原三代(日本史リブレット人)』には、中国史に出てくる「粛慎」と「挹婁」の説明もありました。
曰く「粛慎は本来、春秋・戦国時代の中国人が東北方の人びとを呼んだ名称。 挹婁は魏・晋時代、沿海州地方の住民を呼んだもので、その際、その地をもとの粛慎人の地と考えた」(50p)と。
国史大辞典「山丹人」の項には「文化六年(一八〇九)の間宮林蔵の探検によって、黒竜江の河口ちかくに居住するギリヤークGilyakが、その上流に接して住むオルチャOlchaをジャンタとよび、サンタンはこれから転訛したアイヌ語であることが知られた。」
以上により、時代差は考慮する必要があるにせよ、およそ”中国史に出てくる「粛慎」「挹婁」≒日本史に出てくる「山丹」”と考えてよさそうです。
そうえいば、ほぼ別件ですが、昨日のニュースで、藤原秀衡の一切経(国宝)の一部が民家から見つかったとかいう衝撃的な話がありましたね。
