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Q&A

公開·1名のメンバー

奥羽列藩同盟の藩の知藩事は?

参加した藩は以下の通り。

 

仙台藩 (伊達慶邦)

 列藩同盟の盟主。4男の宗基(3歳)が家督相続し、のち知藩事に就任。

米沢藩 (上杉斉憲)

 子の茂憲が家督を継ぎ、のち藩知事に就任。

二本松藩 (丹羽長国)

 養子の長裕が家督相続、のち知藩事に就任。

湯長谷(ゆながや)藩 (内藤政養)

 養子の政憲が家督相続、のち知藩事に就任。

棚倉藩 (阿部正静)

 養子の正功が家督相続、のち知藩事に就任。

亀田藩 (岩城隆邦)

 養子の隆彰(6歳)が家督相続、のち知藩事に就任。

相馬中村藩 (相馬誠胤)

 誠胤は謹慎、のちに知藩事に就任。降伏が早かったため、藩領削減なし。

山形藩 (水野忠弘)

 忠弘は謹慎後、ゆるされ近江朝日山藩に移封。忠弘はのち朝日山藩知事に就任。

 旧山形藩領は天領となる(知藩事任命なし)。

福島藩 (板倉勝尚)

 養子の勝達が家督相続、移封され三河重原藩(もともと福島藩の飛び地)を立て、のち、勝達は重原藩知事に就任。

上山(かみのやま)藩 (松平信庸)

 弟の信安(5歳)が家督相続。のち信安が知藩事に就任。

一関藩 (田村邦栄)

 弟の崇顕が家督相続。のち崇顕が知藩事に就任。

盛岡藩 (南部利剛)

 子の利恭が家督相続、陸奥白石に移封。利恭が白石藩知事に就任、同年中に献金を条件に盛岡藩知事に転任したが、献金を用意できず、政府の圧力で辞表提出。

三春藩 (秋田映季)

 藩主は戊辰戦争当時10歳。いち早く降伏し、藩主映季が知藩事に就任。

矢島藩生駒親敬、参加時は交代寄合旗本、後に石高を直し再立藩した)

 ※交代寄合:武家の家格の一つで、老中配下(旗本は普通若年寄配下)で、譜代大名並みの待遇を受け、隔年~数年ごとに参勤交代も行う。

 新政府方に寝返ってからの功績で立藩が認められる。藩主生駒親敬が知藩事就任。

久保田藩(秋田藩) (佐竹義堯)

 1868年8月、列藩同盟から離脱。版籍奉還後、佐竹義堯が知藩事に。

弘前藩 (津軽承昭)

 新政府方につき、箱館戦争での功績などから石高を加増され、のち承昭が知藩事就任。

守山藩 (松平頼升)

 藩内は勤皇派多く、戦わずして降伏。頼升隠居で養子の頼之が家督相続。版籍奉還で頼之が知藩事となるが、翌年藩庁を常陸松川に移し松川藩となったので、守山藩は廃藩。

新庄藩 (戸沢正実)

 当初新政府方、のち列藩同盟に参加するも、また新政府方に戻る。裏切りを責められたが、釈明の機会を得て、新政府方復帰後の功績でもってゆるされ石高は加増される。版籍奉還で、正実が知藩事に就任。正実の母が薩摩藩島津氏の出身であったことが有利に働いたらしい。

八戸藩 (南部信順)

 藩主信順は薩摩藩島津重豪の子。列藩同盟に参加するが戦闘には参加せず、許され、八戸藩知事となる。

磐城平藩 (安藤信勇)

 陸中磐井に転封となるが、献金と引き換えに磐城平に復帰、版籍奉還後は信勇が知藩事となる。

松前藩 (松前徳広)

 戊辰戦争中に徳広が死去し、子の修広が家督相続。版籍奉還後、修広が知藩事となり、同時に館藩に改称。

本荘藩 (六郷政鑑)

 新政府方につき、功績から賞典禄1万石預かる。版籍奉還後、政鑑が知藩事就任。

泉藩 (本多忠紀)

 当初新政府方、列藩同盟に転じて交戦し降伏、減封。養子の忠伸が家督を相続し、忠伸が知藩事となる。

下手渡藩 (立花種恭)

 1806年、筑後三池の立花氏の転封によって立藩。戊辰戦争時は旧幕府・新政府どちらにつくか態度を明示せず、仙台藩から攻撃を受けて藩庁が焼失。藩主立花種恭が三池に戻ったため、下手渡藩は廃藩。

天童藩 (織田信敏)

 藩主織田氏は織田信長の次男織田信雄の子孫。戊辰戦争時、当初新政府方につくが列藩同盟に参加し降伏、信敏は減封、隠居。家督を相続した弟の寿重丸が4歳で知藩事となるが、幼少のため免職となり、信敏が家督に復帰して知藩事となる。

長岡藩 (牧野忠訓)

 領地(7万4000石余)没収後、家督を養子忠毅に譲った上で、2万4000石で再興が認められる。忠毅が知藩事となるが、戊辰戦争で領内は壊滅的な被害を受け、厳しい財政難もあり、全国的な廃藩置県に先立ち、1870年に廃藩。

新発田藩 (溝口直正)

 当初列藩同盟に参加するが、領民の新政府支持などもあり、新政府軍の新潟上陸後は新政府方についた。版籍奉還後、直正が知藩事に就任。

村上藩 (内藤信民)

 新政府軍の攻撃を受け、藩主信民は自殺。先代の内藤信思が養嗣子として岸和田藩主岡部長寛の次男をたてて「内藤信美」と名乗らせ、跡を継がせた。版籍奉還後、信美が知藩事に就任。

村松藩 (堀直賀)

 幕末、守旧派(藩主ら)と、尊皇攘夷を主張する正義派との対立が激しく、藩主らが列藩同盟に参加し敗走したのちも、正義派が村松に残留し、直賀の養子直弘をたてて新政府方に与したことで藩領は安堵された。版籍奉還後、直弘が知藩事に就任。

三根山藩 (牧野忠泰)

 長岡藩の支藩として列藩同盟に参加したが、のち新政府方につく。信濃伊那への転封が決まるが、嘆願により取り消される。忠泰が知藩事に就任。1870年、嶺岡藩に藩名を改める。

黒川藩 (柳沢光邦:閏4月20日光昭から家督を譲り受ける)

 光昭は列藩同盟への参加を決めるが、終始消極的で(藩主柳沢氏は代々ほぼ江戸に居住し領地には入っていないため、同盟にも家臣を派遣したのみ)、家督を娘婿の光邦に譲って引退した。光邦が知藩事に就任。

 

奥羽越列藩同盟は、必ずしも佐幕で結束していたわけではなく、新政府方にも協力しつつ、同盟にも参加する日和見政策な藩も多数あったようです。早くに降伏した藩は藩領はそのまま安堵、抵抗が長く続いた藩は減封・移封などの処分を受けました。

大まかな傾向として、列藩同盟に参加した藩主は謹慎・隠居。子(実子・養子どちらの場合もあり)が家督を相続し、知藩事に就任する、というもののようです。

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