伊藤博文が1882年に渡欧することとなった経緯
明治14年(1881年)政変前、伊藤は大隈重信や井上馨とともにイギリス型憲法を採用することを検討していた(西川)。
明治14年に国会開設の勅諭が出されたあと、伊藤は「神経衰弱」に悩まされ、毎晩酒を一升飲まないと眠れない状態になっていた(西川ほか)。
明治14年11月6日、寺島宗則が岩倉具視に対して、伊藤を欧州へと派遣することを提案した(伊藤)。
明治15年1月より内閣の調整が始まるが、伊藤は九州の三池炭鉱の視察などで東京にいない。
どうやら、伊藤の渡欧は伊藤自らの発案ではないようだ。(坂本)
明治14年の政変前から反薩長藩閥政治の世論が高まっていたので、明治政府内では伊藤の渡欧を景気に混乱が起こることを警戒していた(久保田)。政府内では佐々木高行・山田顕義・大木喬任などが反対し、岩倉具視も消極的だった(伊藤)。、在野では『東京日日新聞』『東京横浜毎日新聞』『朝野新聞』『郵便報知新聞』などが、こんな大変な時期に伊藤自らが渡欧すべきなのかと反対していた(伊藤ほか)。なお、福沢系の『時事新報』は反対していない(坂本)。
井上馨が山県有朋・大山巌・西郷従道などの有力参議を説得したと推測される(伊藤)。
ドイツ憲法に深い理解がない伊藤は、自ら渡欧してドイツ型憲法の理解を深めることを決意した(西川)。伊藤は、自分以外の者が憲法調査の重要性を理解していないと考えていたのでは?(瀧井・伊藤)
明治15年(1882年)3月3日:伊藤博文に渡欧の勅命が下された。憲法の条文だけでなく、実際の運用や社会的背景も調査するようにと言われた。
明治15年3月14日:欧州に出発。
参考文献:
久保田哲『帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘』(中公新書・2018年)
西川誠『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』(講談社・2018年)
