織田信長と水軍
織田信長に九鬼以外の水軍は味方したの?
第一次・第二次木津川口の戦いのときの水軍模様は?
信長が石山本願寺と戦っているとき、毛利氏は本願寺を援助するために、警固衆を派遣して物資や食糧を海上から輸送して、本願寺に搬入しようとしました。
これに対して、信長も警固衆を動員して、海上にて輸送を阻止しようとしました。
最初の激突は、天正四年(1576年)七月の、いわゆる第一次木津川口の戦いです。
『信長公記』によると、
毛利軍の面々は、能島(村上元吉)・来島・児玉大夫(児玉就英)・粟屋大夫(粟屋元如)・浦兵部(乃美宗勝)
信長方は、真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・沼野大隅守・宮崎鎌太夫・宮崎鹿目介・尼崎小畑・花くまの野口
でした。
結果は、毛利軍のほうろく火矢で焼かれまくって、多くの討死者を出すという惨憺たるものでした。
なお、毛利方の注進状によると、戦の三日前に淡路島北端の岩屋から出船して、和泉の貝塚に乗り渡って、紀伊の雑賀衆と同意して、堺から木津川口に進んだところで、織田水軍と遭遇して戦になったといいます。
雑賀衆は毛利方についたことが分かります。
なお、この注進状には、上の毛利軍面々のほか、村上吉継や村上武満などの名前も見えます
天正六年(1578年)六月、一度敗北した信長は、志摩国の鳥羽城主九鬼嘉隆に命じて、大安宅六艘を造らせました。興福寺僧の日記『多聞院日記』によると、「横へ七間(12.6メートル)竪へ十二、三間(21.6メートル)もこれある鉄の船」というものです。宇田川武久氏によると、「ここでいう「鉄の船」は矢倉部分に鉄板を張った木造船で鉄製の意味ではない」とのことです。また、大安宅船には大砲三門と多数の鉄砲が装備されていました。
大安宅船は、伊勢から大坂に向かう途中の淡輪(たんなわ)沖で、紀伊の雑賀衆の警固船数百艘!と戦って、「大鉄砲一度に放ちかけ、敵舟あまた打ち崩」すほどの強さでした。雑賀衆をボコしたあと、信長軍に編入された九鬼水軍と大安宅船は、本願寺への海上輸送路の遮断任務につきました。
天正六年(1578年)十一月六日、第二次木津川口の戦いが起こります。
『信長公記』によると、毛利方は六〇〇艘もの軍船を率いてきましたが、九鬼水軍を注進とした信長方は、大砲を撃ちまくって、大勝利をおさめました。
参考文献:宇田川武久『戦国水軍の興亡』(平凡社・2002年)
以上のように、大きいところでは、基本的には毛利水軍と村上水軍が本願寺側について、第二次木津川口の戦いのときに九鬼水軍が信長についたという、有名な話のとおりで大丈夫です。
小さい水軍なんて、全国に虫の数ほどあったでしょうから、そこまで追求しようとしたら、当時の軍注状なんかを見れるだけ見るしかないと思います。まあ、卒論レベルの作業は必要なので、この件はここまでにしておきましょう。
