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紀伊家の徳川吉宗が御三家筆頭の尾張家を差し置いて将軍となった理由

「紀伊藩が尾張藩主を暗殺したのだ」的な異説もいくつかありますが、ここでは定説的なものを紹介します。


1712年10月

6代将軍家宣(50歳)が臨終を迎えます。

その際に新井白石を呼んで、「子の家継(4歳)が幼少なので、尾張家当主(尾張藩主)の吉通(24歳)を将軍に迎えたい」と相談しました。このとき吉宗は28歳で、10年ほど紀伊藩主として改革を成功させており、すでに江戸の庶民にまで評判が広がっていました。

結果的には徳川宗家の家継(4歳)が跡を継ぐのですが、上記のエピソードからは、吉宗よりも年下でも尾張家のほうが優先されていることが分かります。あ、吉通も評判は上々だったそうです。

あと、水戸家の当主は、徳川光圀の子(養子)の綱條(つなえだ・57歳)です。


1713年7月

徳川吉通(25歳)が死去します。尾張家の当主は吉通の嫡男の五郎太(3歳)が継ぐのですが、10月には死にます。

そこで、吉通の弟の継友(22歳)が尾張家の当主となりました。


1716年4月

7代将軍家継(8歳)が死去します。

この時点で、

尾張家当主継友は25歳で、徳川家康の玄孫(曾孫の子)世代、

紀伊家当主吉宗は32歳で、徳川家康の曾孫世代、

水戸家当主綱條は61歳で、徳川家康の曾孫世代

です。


ということで、家柄を基準とするなら尾張家の継友が最有力候補となり、年齢・世代を基準とするなら水戸家の綱條が最有力候補となります。ただ、綱條は年上といってもさすがに年を取りすぎなきらいはありますね。

この状況で老中と側用人と家宣の正室天英院らが話し合って、紀伊家の吉宗を将軍に迎えることが決まりました。


これで吉宗が将軍となるまでの過程は分かるのですが、結局のところときの老中たちが吉宗を選んだ理由は、史料にないので分からないそうです。残念。。。

理由については、今回の参考文献から引用しておきます。


こうして、吉宗の将軍就任が決定したのである。しかし、実のところ、決定にいたるまでの老中らの話合いの内容については、よくわかっていない。家宣の遺命を受けた吉宗と綱条を比較し、紀州が水戸よりも家格が上ということで決まったとする説があるが、先例のないはじめての将軍家の血統断絶という状況のなかで、そう簡単に決まったとは考えにくい。御三家のあいだに対立があったともいわれる。とくに将軍をだした紀州家と、七代将軍の座を逸したうえ、御三家の筆頭でありながら、ふたたび将軍をだしそこねた尾張家とのあいだには、さまざまな憶測が乱れ飛んだ。(大石学『徳川吉宗 日本社会の文明化を進めた将軍』日本史リブレット人)


というわけで状況証拠に頼らざるをえず、吉宗の評判の良さや、情報収集力に長けた吉宗の政治力の高さなどが、原因ではないかと推測されているようです。


参考文献:大石学『徳川吉宗 日本社会の文明化を進めた将軍』(山川出版社・2012年)


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