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天皇の号(諡号・追号)

以下に長く引用します。この人(藤田覚)の研究が日本史では最新でスタンダードな位置づけのものとなります。


天皇号の再興(※江戸時代)

 近代では、たとえば生前は裕仁天皇であり、死後は昭和天皇と呼ばれる。江戸時代の天皇は、「禁裏」「禁中」「主上」などと表記され、「天皇」と記されることはまずない。まったく書かなかったわけではなく、即位宣命は「天皇」と書いて「すめらみこと」と読んでいる。また、譲位した天皇は「太上天皇」とおくられた。しかし、亡くなると「後水尾天皇」ではなく、「後水尾院」と院号をおくられた。だから、亡くなった天皇は「後水尾天皇」ではなく、「後水尾院」と呼ばれた。ちなみに、将軍も公式に「将軍」と書かれることはほとんどなく、将軍宣下が済むまでは「上様」であり、宣下が済むと「公方様」と表記される。亡くなると、八代将軍吉宗のように「有徳院」と院号をおくられ、「有徳院」と呼ばれた。なお、将軍の院号は幕府の依頼により朝廷が選定した。

 歴代天皇の死後の称号は、康保四年(九六七)に亡くなり村上天皇と天皇号がおくられたのを最後に、正暦二年(九九一)に亡くなり円融院とおくられて以来、ずっと院号であった。また、天皇号や院号の前につく「○○院」には、諡号と追号の違いがある。桓武のように生前の功績を讃えておくる美称を諡号といい、冷泉や一条のように生前の御所名や山陵名で、生前を賛美する意味を含まないのを追号という。桓武天皇のような「諡号+天皇号」は、仁和三年(八八七)に亡くなり光孝天皇とおくられたのを最後に中絶した。「追号+天皇号」も、康保四年の村上天皇が最後だった。ところが、天保十二年(一八四一)閏一月に、前年十一月に亡くなった兼仁上皇に「光格天皇」とおくられ、「諡号+天皇号」としては九五四年ぶり、天皇号としては八七四年ぶりに復活したのである。「諡号+天皇号」の再興は、復古の最たるものだった。

 仁孝天皇は、天保十一年十一月に兼仁上皇が亡くなると、天皇号の再興を公家へ勅問し、賛成を得て幕府と交渉し実現した。ついで諡号の第一候補を示しつつ五つの候補を幕府に伝え、幕府の選択により、朝廷が選定した第一候補「光格」に決まった。天皇号を望んだ朝廷側の理由は、さまざまな朝儀や行事を復古・再興させた功績を讃えたいという趣旨である。幕府は、仁孝天皇の「叡慮」を重視し、かつ故上皇が質素を重んじた点を幕府もよく承知しているので、今回は「格別の御訳柄」で承認した。その後の朝廷と幕府のやり取りで、諡号でも追号でも「天皇」とおくること、諡号の場合は幕府に問い合わせ、追号でも決められないときは幕府に問い合わせることなどが取り決められた。この結果、これ以降は諡号でも追号でも天皇号がおくられることに決まった。近代以降は「元号+天皇」になったが、天皇号をおくることは天保十二年に再興されたのである。


天皇号再興の意義

 儒学者の中井竹山が、天皇号の意味について「院号は、諸侯大夫より士庶人迄も用ゆる事なれば、帝号に極尊の意かつてなし、勿体なき事なるべし」(『草茅危言』寛政元年〈一七八九〉の著作)と明瞭に語っている。院号は大名(将軍も)から一般庶民までが使っているので、天皇が「極尊」であることを表現していないという。天皇号を復活させれば、天皇が日本でもっとも尊い存在であることを明示できる、ということである。竹山は、諡号も復活させ、院号だった方には在位中の元号を諡号にして、「元号+天皇」とおくり直すべきだと主張している。院号では天皇と将軍は同格だったが、天皇号再興により、死後の称号という点でも、天皇は明確に将軍の上位に立ったのである。


藤田覚. 天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (講談社学術文庫) (pp.291-292). 講談社. Kindle 版.


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