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Q&A

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なんで不平士族の反乱は西日本で、激化事件は東日本なの?

まずは、国史大辞典を使って、1870年代の士族の反乱事件を一覧してみます。


①1874年:佐賀の乱・佐賀

首謀者:江藤新平

背景:地主の不満。米価冒頭。天然痘流行。

直接の原因:佐賀出身の江藤新平・副島種臣の免官。大久保利通配下の佐賀権県令が佐賀県地方の不平士族を弾圧しようとした。

備考:反乱士族一万一千八百二十名、有罪四百十名、戦死百七十三名。


②1876年10月:敬神党の乱(神風連の乱)・熊本

首謀者:大田黒伴雄

背景:敬神党という攘夷主義勢力が強く残っていた。

直接の原因:同年の廃刀令への反意。

備考:百九十余の同志とともに決行。自刃富永・阿部ら八十六名、斬罪三名、終身刑四名、懲役四十一名、放免二十九名、逃亡して西南戦争に参加した者四名。


③1876年10月:秋月の乱・福岡

首謀者:宮崎車之助

背景:守旧派士族が政府の開化制作に反発。征韓論主張。

直接の原因:敬神党の呼びかけに呼応。

備考:参加者は約二百三十名といわれる。


④1876年:萩の乱・山口

首謀者:前原一誠(元参議)

背景:前原とその配下が地租改正や士族解体政策に不満。

直接の原因:敬神党の乱に呼応。

備考:旧長州藩の士族三百三十二名が蜂起。


⑤1877年:西南の役でごわす・鹿児島でごわす

首謀者:西郷隆盛でごわす

背景:西郷の失脚と明治政府への不満でごわす

直接の原因:鹿児島草牟田陸軍火薬庫の弾薬が私学校派の手にわたるのをおそれ、従来の慣例に反して県庁に連絡せず、ひそかに搬出をはかった件でごわす。

備考:一万三千の鹿児島士族は、政府密偵の西郷暗殺陰謀に対する尋問を理由に武装して進発を開始した。もはや西郷も同調せざるをえなくなり、かれは翌十五日に出陣したでごわす。西郷軍の総兵力は約三万名でごわす。



次に、同じく国史大辞典を使って、1880年代の激化事件を一覧してみます。

⑥1881年1月:福島事件・福島

首謀者:河野広中

指導者層:自由党系士族・農民

背景:福島県は明治初年以来東北地方における自由民権運動の中心的拠点だった。

直接の原因:県令三島通庸の三方道路建設計画に反対。

備考:数千の農民が喜多方警察署に押しかけ警官隊と衝突。


⑦1883年3月:高田事件・新潟

首謀者:八木原繁祉

指導者層:自由党員

背景:新潟県頸城(くびき)自由党という自由党の地方拠点の活動の中心地。

備考:自由党員二十三名が内乱陰謀罪容疑で逮捕され、のち逮捕者は党外の人を含む三十七名に達した。


⑧1884年5月:群馬事件・群馬

首謀者:清水永三郎

指導者層:自由党員

背景:松方デフレによる不況

直接の原因:自由党員清水永三郎らの煽情。官吏暗殺計画の失敗。

備考:妙義山陣馬ヶ原に蜂起した。その数は、数千名(『東陲民権史』)とも二百名(『郵便報知新聞』五月二十日、『自由燈』五月二十四日)ともいわれており、正確を期しがたい。



⑨1884年9月:加波山事件・茨城

首謀者:富松正安など

指導者層:自由党員

背景:自由党員の度重なる暗殺計画失敗。

直接の原因:警察の立ち入り捜査。

備考:全員が逮捕され、富松以下七名が死刑、七名が無期徒役、四名が九年から十五年の有期徒役に処せられた。18名。



⑩1884年10月:秩父事件・埼玉

首謀者:困民党

指導者層:負債農民

背景:松方デフレによる不況。困民党の結成。

直接の原因:

備考:約3000人?軍隊とも衝突。



⑪1884年12月:飯田事件・長野

首謀者:村松愛蔵

指導者層:民権活動家

背景:民権活動家の拠点。松方デフレによる不況。

直接の原因:自由党の解党。秩父事件に呼応。

備考:火薬の搬入から事前に発覚し、十二月初旬に同志は各地で逮捕され、村松以下六名が内乱陰謀罪で処刑された。


⑫1884年12月:名古屋事件・愛知

首謀者:大島渚

背景:自由党員の政府転覆計画。

直接の原因:自由党員が50回以上の強盗をして警察殺害もしていたときに、一味の人間が検挙された。

備考:30人くらい?


⑬1886年6月:静岡事件・静岡

首謀者:

背景:自由党員が静岡県内各地で強盗を繰り返す。

直接の原因:大臣暗殺計画と挙兵計画が発覚。

備考:逮捕者100名以上



以上の傾向から推察するに、

1870年代に西日本を中心に士族の反乱が起こった理由は、

多くの士族を抱えた西南雄藩が西日本に集中していることと、薩長土肥出身の政府指導者層が多く在野に下ってきており、不平士族の中心となったと言えるでしょう。

要は、薩長土肥が西日本にあったということですね。


西郷までもが倒されたことにより、武力の結集核となれる人物が西日本にはいなくなりました。また、武力反乱は不可能だという認識も強くなったと推察されます。


政治の中心が東京に移り、板垣退助も東京に住んでいます。

自由民権運動は東日本にも広がり、1881年に結成された自由党が東京を中心に農村まで全国各地で遊説を行って、農民からの支持を得ていきました。

ここに、松方デフレによる農民の困窮が加わったと言えるでしょう。

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