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フォーラムのコメント

荘園公領制スレ
In Q&A
順大 古川
2025年8月25日
「摂関家の巨大荘園等ができる ↓ 延久の荘園整理令によって、荘園の権利関係の明文化が進む」ですが、 イエの成立は12世紀ごろで、「摂関家の巨大荘園等」(←家領荘園のことだと思います)は1069年の延久の荘園整理令よりも後のことです。 高校の教科書というか、大学受験では、寄進地系荘園の登場→延久の荘園整理令と覚えておいてください。 「白河院、鳥羽院によって、国衙領の知行国化が進む」ですが、 国衙領(=公領)というのは、荘園ではないある土地(今にたとえればディズニーランドの敷地など)のことで、知行国というのは知行国主の国(今にたとえれば千葉県)のことなので、別の話です。 A国という知行国(や知行国でないB国)の中に、α郡とかβ郷とかγ保という国衙領(田んぼとかのかたまり)やη荘とかι荘という荘園(田んぼとかのかたまり)が乱立しているのが荘園公領制です。 「平氏政権が国衙領を掌握」は、 平氏は多くの知行国を持っているのでいいでしょう。 「守護、地頭制の成立によって院、摂関家の他に地頭というプレイヤー誕生」 平氏や摂関家や皇族や寺院は荘園のいわば所有者である荘園領主ですが、地頭は荘園荘領主が持っている荘園の現地管理人なので、違います。 地頭は荘園のオーナーではなく、あくまでも摂関家などのオーナー(荘園領主)に雇われているだけの雇われ店長なのです。 鎌倉時代の守護の職掌は、大犯三箇条(大番催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕)と御家人の統率なので、守護は荘園にはまったく関わりありません。室町時代になると、守護も半済などで荘園に関わってきます。 それ以降の流れは、 承久の乱後に、地頭の荘園侵略が進み、地頭請や下地中分で地頭の領主化がはじまる。 南北朝期に、守護の権限が強化されて、守護も荘園・公領に手を出してくる。 室町時代に、守護領国制ができあがってきて、守護大名が登場する。守護大名は国衙領や荘園にかなり強い支配力をおよぼすようになる。 戦国時代に、戦国大名が領国を一円支配するようになって、さらに国衙領や荘園に大名の支配がおよぶ。 太閤検地で、中世的な荘園・公領の権利関係が整理されて、一地一作人の原則が完成する。 です。 荘園制は複雑なので、ゆっくりと勉強してください。 何度でも質問してくださいな。
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歴史系でおもしろそうなニュースを貼っていくスレ
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異国船打ち払い令が発令された時の 各大名の大砲の所持率はどれぐらいなんですか?
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順大 古川
2025年8月12日
別のスレで回答しています。
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戦国時代の援軍要請について
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京都所司代とその淵源
In Q&A
順大 古川
2025年8月11日
谷口氏の著書から、信長の「天下所司代」の説明を引用しておきます。 谷口氏は専門の研究家でないことと、専門の研究家は「京都所司代」とか「京都奉行」とかよんでいることには注意しておいたほうがよさそうです。 以下引用 一五七三年、信長は将軍足利義昭を追放した。そして、幕府機構の消滅した京都に「天下所司代」という役職を置いた。「天下」は「京都」のことであり、「京都所司代」とも呼ばれている。その「天下所司代」にされた家臣こそ、筆頭吏僚の村井貞勝だったのである。 (谷口克広. 信長の天下所司代 筆頭吏僚村井貞勝 (中公新書) (pp.3-4). 中央公論新社. Kindle 版.) 「天下所司代」について 「所司代」というのは、もともとは室町幕府の職名である。京都の中の治安警察の仕事に携わる役所が侍所でその長官を所司といった。その代官がすなわち「所司代」なのである。幕府の諸職の中でも、それほど高い位ではない。  室町幕府が比較的安定していた時代は、この職も代々続いていたが、応仁の乱(一四六七~七七年)以後は、誰がその任務に就いていたのか明確でない。おそらく廃絶してしまったのだろう。  百年近くもたってから、「所司代」が復活したわけだが、もちろん本来の侍所所司代とはかなり違う。侍所の任務は、検断沙汰といって、刑事事件の検挙、断罪に限られていた。そのほかの事件に関しては、政所が処理していた。  ところが、信長が貞勝に託した権限に関して、『信長公記』には次の言葉で示されている。 「天下所司代村井長門守(実はまだ民部少輔)仰付けられ、在洛候て、天下諸色申付けられ候なり」  貞勝が委ねられたのは、「天下諸色」なのである。  ここで言う「天下」とは、「京都」のことである。京都の「諸色」だから、検断沙汰にとどまらないことはもちろんである。これから貞勝の活躍ぶりを見てゆくが、京都の治安警察はもちろん、道路など社会資本の整備、土地・権益などをめぐる訴訟、それになんといっても禁裏・公家に関する諸問題がある。室町幕府の侍所所司代などとは、仕事の煩雑さは比較にならない。  貞勝が先鞭をつけた新しい「所司代」の役割は、彼の後、豊臣政権の前田玄以に引き継がれるし、さらに江戸時代には、恒常的役職となって定着するのである。 (谷口克広. 信長の天下所司代 筆頭吏僚村井貞勝 (中公新書) (pp.53-54). 中央公論新社. Kindle 版.)
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大友・大村・有馬のキリシタン大名たちの同盟関係は?
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順大 古川
2025年8月06日
まず可能な限り雑に北部九州の戦国大名の盛衰をみておくと。 大内義隆が陶晴賢に敗れる(厳島の戦い・1555年) →大内氏の勢力が後退して大友氏の勢力が強くなる →大友宗麟が島津に負ける(耳川の戦い・1578年) →龍造寺隆信の勢力が強くなる →龍造寺隆信が島津に負ける(沖田畷の戦い・1584年) →大友が少し復活して島津が強くなるけど、豊臣秀吉が入ってきて九州勢力は一掃される ってな感じです。 大友宗麟は九州のトップ争いに絡んでくる九州ティア1大名ですが、有馬はティア2で、大村はティア3の大名となります。 断片的になりますが、 大村純忠は有馬氏からの養子で、有馬晴信の叔父にあたります。有馬氏と大村氏は密接な同盟関係にありました。大村氏のほうが格下です。また、大友と大内が争っていたころは、有馬氏は大友側につくことが多かったようです。1560年代の有馬氏は、龍造寺氏に対抗するために大友氏をよく頼っていました。 1570年、大友宗麟が龍造寺隆信を攻めたときは、有馬氏は龍造寺氏側についています。 1576年、有馬氏の傘下にあった大村純忠が、龍造寺隆信の傘下に入ります。 1579年、大村純忠が龍造寺氏の傘下に入ります。 1582年、有馬氏は龍造寺氏から離反して、島津氏に支援を要請します。 1583年、島津氏が助けてくれなかったので、有馬氏は龍造寺氏に降伏して、龍造寺配下に戻ります。ただ、有馬氏はまだ島津氏に手紙を送ったり、大友氏に援軍を要請したりしています。 1584年、島津氏が本格的に龍造寺氏を攻めて滅ぼしたときは、有馬氏はガッツリと島津側についています。 有馬とその親戚の大村は龍造寺よりも西にいて、龍造寺氏が強くなったあとは大友との関係はそこまで深くなったことはないようです。1582年の天正遣欧使節のときも、大村純忠と大友は事前協議していないそうです(『戦国武将列伝11 九州編』)。 参考文献: 山本浩樹『西国の戦国合戦』(吉川弘文館・2007年) 新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』(戎光祥出版・2023年)
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食文化関係スレ
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順大 古川
2025年7月30日
肉食の論点が多岐にわたるので、目についた書籍の目次を紹介しておきます。 原田信男『歴史のなかの米と肉』(平凡社・1993年) 序章:近代における米と肉 1,天皇の肉食再開と民衆の混乱 2,諭吉の肉と鷗外の米 3,老農の努力と北限の米 4,朝鮮における産米増殖政策 第一章:米文化の形成と天皇 1,日本における食生活の原像 2,弥生時代における米と肉 3,神話に見る米と肉と天皇 4,祭祀に見る米と肉と天皇 第二章:米への収斂と肉食の禁忌 1,天皇の肉食と古代の狩猟 2,肉食の禁忌と米の生産 3,古代国家の選択と理念 4,古代国家の水田志向 第三章:肉食禁忌の浸透と神仏 1,中世における肉食の実態 2,肉食の穢れと神道 3,肉食の罪と仏教 4,肉食否定の進行と狩猟の衰退 第四章:米の収奪と水田の展開 1,租税としての米と食生活 2,畠地の位置と山野河海 3,中世における水田の展開 4,武家の転身と中世の転換 第五章:肉の否定と差別の進行 1,非農業民と天皇の関係 2,肉の穢れと差別の観念 3,新仏教の展開と肉食 4,米志向と差別の深化 第六章:米と肉と国家領域 1,北海道における米と肉 2,沖縄における米と肉 3,米と肉と国家領域 4,周辺地域における差別の位相 終章:近世における米と肉 1,米社会の成立と肉食否定 2,近世の農政思想と米食論 3,近世の学問思想と肉食論 4,近世の政治思想と差別論 平林章仁『神々と肉食の古代史』(吉川弘文館・2007年) 第Ⅰ部:牛肉を喰らう女神 第1章:怒る御歳神、牛肉を喰らう 第2章:御歳神は葛城の女神だった 第3章:葛城氏・蘇我氏と生贄祭祀 第Ⅱ部:生肉を好む神々 第1章:常世神や漢神も肉が好き 第2章:地獄の沙汰も肉次第 第3章:馬を喰らう天照大神 第4章:驚いた巫女と恥をかいた神 第Ⅲ部:肉食と殺生の禁断 第1章:肉を食べない儀礼 第2章:散乱する骨肉は埋め、飲酒屠殺も禁止する 第3章:病気回復を願うので殺生肉食を浸漬する 終章:血肉穢悪観の肥大化への道
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浜口雄幸を襲撃した犯人は銃をどんなルートから手に入れたの?
In Q&A
順大 古川
2025年7月26日
よろ
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織田信長関係スレ
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順大 古川
2025年7月24日
質問:戦国時代の援軍要請について(畠山氏と織田氏の同盟関係) 回答: 姉川の戦いのあと(元亀元年(1570年)8月)に、四国にいた三好三人衆たちが海をわたって、摂津国に陣を構えて東をうかがったときは、将軍足利義昭の命を受けた畠山高政などが防ごうとします。このとき、将軍足利義昭が信長にも連絡を入れて、義昭も信長も出陣しています。 注目されるのは、信長が出陣を免除した徳川家康に対しても、義昭は独自に出陣を要請して入る点です(『織田信長』)。このことは、将軍を媒介とした援軍要請が、この時代の重要な方式の一つだったことを推測させます。 元亀ニ年(1571年)から元亀三年(1572年)にかけて、三好義継や松永久秀は河内の畠山高政を攻撃しました。このとき、元亀三年の4月に、信長は佐久間信盛や柴田勝家らを援軍に向かわせるのですが、その過程はまだ調べられていません。 天正五年(1577年)閏7月に上杉謙信が能登の七尾城に攻め込んできたときに、信長が柴田勝家を総大将として滝川一益・豊臣秀吉・丹羽長秀らを救援に向かわせた話が一番有名だと思います。 このとき、能登守護畠山氏は有名無実の存在ともいえる状況で、七尾城の実権は遊佐氏・長氏などに握られていました。その長氏の長綱連は信長の救援を請うために、弟の孝恩寺宗顓(後の長連龍)を使者として密かに安土に派遣しました。宗顓は乞食姿に変装して信長のところまでやってきたそうです。 三好義継や松永久秀が畠山昭高の武将を攻めたときに、織田信長は救援を送るのですが、その過程についてはまだ調べられていません。 参考文献: 谷口克広『織田信長合戦全記録』(中公新書・2002年) 小和田哲男『詳説図解 信長記』 など
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順大 古川

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