top of page
未来への”OneStep”
フォーラム記事
順大 古川
2025年6月15日
In Q&A
下巻182p
回答:
参考文献は法政大学大学院の博士論文なので、研究にそのまま使えるものではありませんが、
おおむね、以下のような理由によるそうです。
1,労働組合の方針に関する相違
2,革新自治体の財政的難と選挙敗北
3,社会党内部の分裂と公明党・社民党などの野党との離合集散
参考文献:
及川智洋「戦後革新勢力の対立と分裂」(法政大学学術機関リポジトリ・2019年)
0
0
1
順大 古川
2025年6月15日
In Q&A
後三条天皇の延久の荘園整理令(1069年)によって定められた公定枡である宣旨枡は、
「公家・神社・仏寺関係の計量にしばしば使用され、鎌倉時代になると、京都のみならず、ほとんど全国にわたって、その用例が認められる」(国史大辞典)とあります。
また、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の建長四年(1252年)3月19日条に「能米卅石白米二石〈宣旨斗定〉大豆三石、〈同斗〉秣二百卅束、[標準領域(該当行)]能米三十石白米二石〈宣旨ノ斗定〉大豆三石、〈同キ斗〉秣二百三十束」などとあるように、鎌倉幕府の支配領域でも使用されていました。
ただし、村田修三氏が宝月圭吾『中世量制史の研究』をまとめたところによると、
国衙は国ごとに国衙枡を使っており、荘園でも荘園単位で庄斗を使用していました。
さらに室町幕府の時代に入ると、枡の地域差が拡大していったとされます。
そんで、戦国大名たちは枡の統一を目指しはじめ、豊臣秀吉の太閤検地の京枡で統一されました。
つまり、全国的に宣旨枡は使用されて、必然的に年貢を納める側の農民なども使用させられたようですが、宣旨枡以外の枡が駆逐された時代というものはなさそうでした。
参考文献:
村田修三「地域枡と地域権力」(『史林』55巻1号・1972年)
0
0
1
順大 古川
2025年6月15日
In Q&A
堀之内敏恵「高等試験令第七条試験の研究-戦前期官吏任用制度におけるバイパスとしての機能に着目して-」(『人間発達研究』2020年・お茶の水女子大学)によると、平均11.1%でした。
堀之内敏恵「高等試験令第七条試験の研究-戦前期官吏任用制度におけるバイパスとしての機能に着目して-」(『人間発達研究』2020年・お茶の水女子大学)
0
0
1
順大 古川
2025年6月15日
In Q&A
下巻59p
回答:
シュタインが残した文書群の中には、「日本に関する論考の抜き刷りや草稿、日本政府から送られてきた立法草案や大学の便覧などの資料」(参考文献)やシュタインの息子が日本滞在中に収集した書類や領収書などの資料からなる「シュタイン日本関係文書」があり、その中には多くの名刺や書簡も含まれています。
こうした日本人との交流を経たことや、日本と「英・独・仏など各国の憲政の異同を論じ、また「日本ハ天然ノ帝国ニシテ、天然ノ帝王、天地ト共ニ動カサルナリ。日本国体ノ尊重ナル者則是レナリ」と述べ、日本はその歴史的国体を尊重した独自の立憲君主国憲法を作るべきであるという所見を吐露した」(国史大辞典)りする様子をもって、
シュタインは知日家と表現されているのだと、私は推測しました。
参考文献:
瀧井一博「「日本におけるシュタイン問題」へのアプローチ」(『人文学報』77号・1996年・京都大学人文科学研究所)
0
0
2
順大 古川
2025年6月14日
In Q&A
『もういちど読みとおす 山川新日本史 下』59-60p
質問:
「従来から宮内省(宮内卿)は行政府と別であったが、宮内省(宮内大臣)を内閣の外において、宮中と行政府の別を明確にした」とあるが、「伊藤は、みずから初代の総理大臣になるとともに宮内大臣も兼任した」のはなぜか。宮中(宮内省)行政府(内閣総理大臣)の別が明確になってないのではないか。
茶谷誠一『宮中からみる日本近代史』(筑摩書房・2016年)を読んで、まとめてみました。私の読解などに誤解などがあれば、ご指摘・ご助言をいただけるとありがたいです。
1882年に欧州に憲法視察に出かけてシュタインなどから立憲政体論を学んだ伊藤博文は、天皇の君権を制限する立憲君主制の確立を目指しました。立憲君主制のもとでは、天皇が好き勝手に政治をするのではなく、天皇はただ行政府と立法府の調整役を担うことが期待されていました。
そのために必要だったものの一つが憲法の制定であり、天皇と宮中を憲法体制のもとでシステム化することでした。
今回の文脈で表現すれば、「宮中・府中(行政府)の別」という制度(法律)を作り上げるということです。
ところが、伊藤に対抗する勢力も存在しました。その勢力とは、天皇親政を目指す天皇の側近たち、すなわち元田永孚たちの旧侍輔勢力です。侍輔の制度自体は1979年に伊藤博文と岩倉具視によって廃止されていたのですが、明治天皇の個人的な要請により、依然として旧侍輔勢力は力を保っていたのです。
旧侍輔勢力が望んでいたことは、天皇とその側近が政治の意思決定に強く関わること、いいかえると宮中が行政府に強く介入することだと言えます。宮中の政治介入を許してしまうと、立憲君主制が揺らいでしまいますよね。
宮中を行政から分離するためには、旧侍輔勢力の台頭を防ぐ必要があります。そのためには強力な改革が求められます。そこで伊藤博文は、行政府の参議でありながらも自ら宮中の宮内卿に就任しました。次に行政府が太政官制から内閣制に移行すると、行政府の内閣総理大臣と宮内大臣を兼任しました。
兼任の理由は、伊藤自らが宮中の内部に入り込んで、宮中改革を遂行して宮中と府中(行政府)が別であることを制度面から明確にするためです。
強い力で宮中の内部から宮中改革を行う必要があるという理屈は分かります。ただし、伊藤博文が行政府と宮中の両職に就いている限り、宮中と行政府を分離できないのではないかという懸念はもっともで、宮中の改革が一段落つくと、伊藤は憲法が制定される前に宮内大臣を辞職しました。
こうして「宮中・府中(行政府/内閣)の別」という原則が制度として確立されました。
このように「宮中・府中(行政府/内閣)の別」という制度的枠組みは設けられましたが、そこは人の世の中のこと、宮内大臣辞任後の伊藤博文も、のちの山県有朋も宮中への影響力は強く持っていました。また、宮中にあって宮内省の下局にあたる内大臣府の内大臣も、政治に関与していなかったとは言えません。
以上が、参考文献を読んだ私の理解です。
一応ですが、原則や建前と実態が一致しないからといって、原則や建前に意味がないということはありません。原則や建前は一定のストッパーとして機能しますから。原則や建前がストッパーとして機能した例としては、第一次護憲運動があげられると思います。
0
0
1
順大 古川
2025年6月14日
In Q&A
歴史部のときに、私が「古代と近世に、それぞれ小中華意識があって、それぞれに研究史がある」的なことを言いました。
この件について、改めて紹介していきます。
大前提、その1:中華思想
古代中国に生まれた、「自己(※漢民族の国家:のぶた)の文化が最高で天下の中心に位置するとみて、それと異なる周辺の文化を蔑視 (べっし) する考え方」(日本大百科全書)で、「華夷思想」とも言います。
中華思想では、この天下の中心のことを「中華」とか「中国」と呼びます。
大前提、その2:小中華思想
『世界大百科事典』によると、小中華思想とは、17世紀前期に漢民族国家の明が満州民族の清に滅ぼされて、漢民族が満州民族の支配下に入った事態を前提として、「朝鮮の儒者たちが,朝鮮を中国と文化的同質性をもった〈小中華〉と自負し,他を夷狄視した思想」(世界大百科事典)のことです。
日本で上の小中華思想に近いことを言ったのは、江戸時代の儒者(古学派)の山鹿素行です。
山鹿素行は、著書『中朝事実』で、漢民族が満州民族に支配されていたり、日本の天皇が長期間続いて王朝交代が起こっていないことなどから、「日本を中朝・中華・中国と称して」「日本が大唐や朝鮮より優秀である」(国史大辞典)と主張しました。
では、現在的視点からの研究状況です。(参考:『論点・日本史学』)
【古代】
古代史研究では、日本の「古代国家は「東夷の小帝国」として、朝鮮諸国を指す「諸蕃」や蝦夷・隼人などの列島内の諸種族である「夷狄」に君臨しようとした」(『日本史の現在2 古代』)という「東夷の小帝国」論を石母田正が提唱しました。ここでいう「帝国」とは、日本は中国中心の世界秩序からは自立した別の秩序の中心であり、周辺の諸集団(朝鮮諸国・蝦夷等)を蕃国・夷狄として従える帝国であったという意味です。
使用している言葉は異なっても、先述の「小中華」とほぼ同じ概念にみえます。
その後、石母田氏が根拠とした歴史的実態に疑問が投げかけられ、日本は観念的に「帝国主義」的拡張を目指したという石上英一説へと展開しました。
実体を伴うか否かにかかわらず、日本が自らを夷狄を従える「帝国」と認識したというのなら、「東夷の小帝国」認識の内実はほぼ「小中華思想」と変わらないようにみえます。
【近世】
江戸時代の対外関係を、国を閉ざしていたという意味の「鎖国」ととらえる見方は、現在ではなされていません。
現在議論の中心にあるのは「海禁・日本型華夷秩序」論です。
「海禁」とは、国家が外交を独占して、人々の海外渡航や貿易を制限したという実態を示す言葉です。
これに対して、「日本型華夷秩序」とは、実態面には疑問があるものの、自意識面においては、江戸幕府は日本を「中華になぞらえた独善的な日本中心の外交秩序と国家意識(日本型華夷意識)を形成した」(『将軍権力の確立』)というもので、日本型華夷意識とは「日本を中華とし朝鮮・琉球・オランダを異国、アイヌを「夷」とする日本型華夷秩序が作り上げられ」(『戦国乱世から太平の世へ』)たと認識していること指します。なお、朝鮮は日本よりも一等下とみなされて、中国(明・清)とは外交関係をもたずに、中国を「通商の国」とします。中国との上下関係は、あえて棚上げにしていると言っていいでしょう。
以上をふまえたうえで、私見を述べさせていただきます。
古代日本の「東夷の小帝国」認識にしろ、近世日本の「日本型華夷秩序」認識にしろ、中国との上下関係や同格関係についての温度差があったとしても、結局は世界史的にみた小中華思想そのものか、小中華思想の亜流にみえました。
もし、うえまつ先生から、世界史的な定義からのご意見をいただければ嬉しいです。
参考文献:
杣田善雄『将軍権力の確立 日本近世の歴史2』(吉川弘文館・2012年)
大津透編『日本史の現在2 古代』山川出版社・2024年
藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ シリーズ日本近世史1』(岩波新書・2015年)
岩城卓ニほか編『論点・日本史学』(ミネルヴァ書房・2022年)
0
0
2
順大 古川
2025年6月14日
In Q&A
コンピューター関連ハイテク分野になんの製品まで含むのかで数字は変わるのですが、
基本的にどの範囲までをコンピューター関連ハイテク分野と呼ぶのかに関わらず、
1位アメリカ>>2位日本>>3位西ドイツ>イギリス≒フランス
で良さそうです。
0
0
1
順大 古川
2025年5月30日
In Q&A
人によって解釈が異なり、難しい問題ですが、
たとえば、中国文学者で明治大学法学部教授の加藤徹氏は、公開している授業教材で、
「単純に考えれば、毛沢東の故郷は湖南省であり、湖南省は戦国時代の楚の一部だったので、毛沢東は自分の郷里の大先輩で日本でも知名度の高い屈原の詩集を田中角栄に贈ったのだ、と考えられる。」
とし、いくつかの異なる意見も紹介しています。
加藤徹氏のサイトで曰く、安岡正篤は、
「お前は、俺のいうことをきかないで、東方のアメリカ、或いはアジア自由諸国と合縦して、我が国に対抗しようというなれば、汝の運命は屈原であるぞ、というのかも知れない。そう解釈されても仕方ない。
或いは別にかんぐると、ソ連を秦に擬らえて、お前はソ連に乗ぜられると、屈原の様な運命になって、投水自殺をするように、身を亡ぼすことになるぞ・・・何しろ中共とソ連の関係は険悪ですから、こういう意見もおもしろい。
なににしても、一国の首相にお土産として贈るには、縁起が悪い。いろいろかんぐれば、そんな解釈もできる不愉快なもの。そんなものを、うやうやしくいただいて帰るとは何だと酷評する人もおります。まあ田中さんは、そんなことまでご承知の筈はない。」
と。
また、加藤徹氏のサイトで曰く、「新釈漢文大系」を出版している明治書院のサイトでは、
「1972年9月25日、田中角栄首相は北京を訪れ、同夜の歓迎会で挨拶をしました。その挨拶の中に「中国に多大なご迷惑をおかけした」という言葉がありました。同年9月27日に改めて会見が行われたとき、毛沢東はその「迷惑」という言葉に対応して、田中首相に「楚辞集註」を渡したといいます。田中首相は渡された意味を知ってか知らずか、そのときには本を開かず、日本に帰ってから明治書院刊の新釈漢文大系「楚辞」で調べたといわれています。そこには「迷惑」について次のように記載されていました。
忼慨して絶たんとして得ず、中瞀乱して迷惑す
(こうがいしてたたんとしてえず、ちゅうぼうらんしてめいわくす)
いきどおり慨(なげ)いて君と絶とうかと思ってもできず、心の中は暗み乱れて迷いのである。
(新釈漢文大系 第34巻「楚辞」285ページ 「八 九辦」第二段)
「迷惑」という言葉は、中国では女性のスカートにお茶をこぼして申し訳ないといったくらいの軽い意味であり、その程度の言葉では済まされないという」
だそうです。
ほかにも様々な解釈があると思いますので、ご参考までに。
個人的には「迷惑」という言葉が中国側の反発を買ったという話は歴史学分野でも有名なので、「迷惑」の出典が『楚辞』だという説がおもしろいかなという感じです。
なお、ぜんぜん違う話になりますが、田沼意次の政治を皮肉った狂歌「年号は安く永しと変われども諸式高くていまに明和九」は、明和九年と物価が高くて「迷惑」とをかけているもので、日本史のなかでは有名な「迷惑」ですね。
参考サイト:
明治大学法学部加藤徹氏のサイトの授業教材集の「中国歴史人物列伝6」
0
0
4
順大 古川
2025年5月30日
In Q&A
田中派はロッキード事件を挟んで49議席から43議席へと一度は議席数を減らすも、80年の総選挙では53議席とロッキード事件前の議席数を回復して、86年の選挙では87議席とさらに議席数を伸ばしています。
大きな理由としては、中選挙区制だった当時において、田中派の資金力が多くの党員にとって魅力的であったこと、少数派閥の長老が引退・死去していったこと、事件から一定の時間が経ったこと、中曽根総理が田中派と手を組んだこと、といったことが原因と考えられそうです。
参考文献:
北岡伸一『自民党 政権党の38年』(中公文庫・2008年)
中北浩爾『自民党政治の変容』(NHK出版・2014年)
0
0
2
順大 古川
2025年5月30日
In Q&A
檜垣紀雄「藩札の果たした役割と問題点」(『金融研究』第8巻1号・日本銀行金融研究所・1989年)によると「藩札のなかには領外からも信認を得て通用範囲を拡大したものもあった。例えば和歌山藩伊勢領(飛地領)の松坂札は、その領内だけでなく(中略)近隣の諸藩にまで流通範囲を拡げていった」とあり、領外でも受け取ってもらえる場合もあったようです。
福井県の文書館のサイトの「福井の藩札」の記事に「福井藩札は京都・大阪のほか近国中に流通したとも伝わっています」とあるので、大阪・京都の両替商も取り扱っていたと思われます。
「藩札の果たした役割と問題点」には「交換レートが両替商によって設定されるものと思われるが、資料不足のため、その実態は明らかでない」とあるので、大阪の両替商が取り扱った史料を探すのは難しいのかもしれません。
0
0
1
順大 古川
2025年5月30日
In Q&A
小林延人「近世・近代日本貨幣史の基礎的研究」(『常設展リニューアルの記録』日本銀行金融研究所貨幣博物館・2017年)には、たとえば「諸藩による贋金私鋳については、少なくとも会津・秋田・仙台・二本松・加賀・郡山・薩摩・筑前・久留米・佐土原・高知・広島・宇和島藩が行ったことが明らかになっている」とあります。
研究者の記事ではありませんが、「インフレ、贋金造り、打ちこわし…幕末維新の通貨騒動」(web歴史街道)に薩摩藩の偽金事件が詳しく書かれています。
偽金の写真は(江戸のニセ金)にあります。個人のサイトですが、ビジュアル的に大いに参考になります。
ほかにもいろいろ偽金事件あるようです。藩ぐるみのものとしては、南部藩と薩摩藩のものがとくに有名そうです。町人たちの偽金事件もあります。
まだ図書館で見れてないですが、
三上隆三『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社
小葉田淳『新版 日本貨幣流通史』 高志書院
あたりで総覧できそうです。
1
0
3
順大 古川
2025年5月30日
In Q&A
金座・銀座・銭座については、大貫摩里「江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割 ―金座を中心として」(『金融研究』1999年9月号・日本銀行金融研究所)がまとまっています。
金貨の場合は、「幕府が金座に新定金貨を鋳造させるにあたっては、まず鋳造する金貨の品位、量目を指示して試鋳させ、その後形状、色合い、極印などの貨幣の一般様式を決定した。これを試し吹きといい、この様式金貨をのちに新鋳貨幣の検査における手本貨幣とした(日本銀行調査局[1974])。」(参考文献)
貨幣のデザイン決定にあたっては、幕府が主導的な役割を担ったようです。上のは金貨の例ですが、銀貨銭貨も同様だと思います。
1
0
2
順大 古川
2025年5月29日
In Q&A
直接的に言及されているものをまだ見つけきれていないので、参考文献をいくつか読んでの私の私見を述べさせてもらいます。
①朝廷や幕府権力の弱さ
朝廷も幕府も品質を管理して貨幣を鋳造し、偽造を取りまったり流通網を整備したりするコストも力もないと思います。
②輸入したほうが安い
朝廷も幕府が銅銭を鋳造するよりも、当時はぜったいに完成品を輸入したほうが安くつきます。
③中国銭の信用の高さと使い勝手のよさ
国内経済の規模に対して、対外経済の規模も大きいので、中国との取引に使用できる通貨がどうせ必要とされる。さらに、中国以外とのアジア諸国との取引にも使用できる。
以上要するに、国内で鋳造するメリットもないし、必要もないし、鋳造する力もないというのが理由だと考えられます。
参考文献:
高橋典幸編『日本史の現在3 中世』(山川出版社・2024年)
荒野泰典ほか編『倭寇と「日本国王」 日本の対外関係4』(吉川弘文館・2010年)
0
0
2
順大 古川
2025年5月25日
In Q&A
明治14年(1881年)政変前、伊藤は大隈重信や井上馨とともにイギリス型憲法を採用することを検討していた(西川)。
明治14年に国会開設の勅諭が出されたあと、伊藤は「神経衰弱」に悩まされ、毎晩酒を一升飲まないと眠れない状態になっていた(西川ほか)。
明治14年11月6日、寺島宗則が岩倉具視に対して、伊藤を欧州へと派遣することを提案した(伊藤)。
明治15年1月より内閣の調整が始まるが、伊藤は九州の三池炭鉱の視察などで東京にいない。
どうやら、伊藤の渡欧は伊藤自らの発案ではないようだ。(坂本)
明治14年の政変前から反薩長藩閥政治の世論が高まっていたので、明治政府内では伊藤の渡欧を景気に混乱が起こることを警戒していた(久保田)。政府内では佐々木高行・山田顕義・大木喬任などが反対し、岩倉具視も消極的だった(伊藤)。、在野では『東京日日新聞』『東京横浜毎日新聞』『朝野新聞』『郵便報知新聞』などが、こんな大変な時期に伊藤自らが渡欧すべきなのかと反対していた(伊藤ほか)。なお、福沢系の『時事新報』は反対していない(坂本)。
井上馨が山県有朋・大山巌・西郷従道などの有力参議を説得したと推測される(伊藤)。
ドイツ憲法に深い理解がない伊藤は、自ら渡欧してドイツ型憲法の理解を深めることを決意した(西川)。伊藤は、自分以外の者が憲法調査の重要性を理解していないと考えていたのでは?(瀧井・伊藤)
明治15年(1882年)3月3日:伊藤博文に渡欧の勅命が下された。憲法の条文だけでなく、実際の運用や社会的背景も調査するようにと言われた。
明治15年3月14日:欧州に出発。
参考文献:
久保田哲『帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘』(中公新書・2018年)
西川誠『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』(講談社・2018年)
瀧井一博『伊藤博文: 知の政治家』(中公新書・2010年)
伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』(講談社・2015年)
坂本一登『伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入』(講談社・2012年)
0
0
4
順大 古川
2025年5月25日
In Q&A
①板垣の渡欧費用はだれが出したのか?勝手な使い方をしなかったのか?
板垣退助と後藤象二郎の渡欧費用として、政府は三井から二万ドルを調達して渡したらしい。
その後、政府筋のカネを使うのをいやがった板垣が、奈良の資産家で自由党指示者の土倉庄三郎から資金を調達したらしい。
そんで、二万ドルを後藤象二郎がどうつかったのかは、闇の中らしいデス。
参考文献:松沢裕作『自由民権運動 〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書・2016年)
②板垣とかの渡欧費用はどんな形で渡すの? 現金?
完全に不明なので、のちの課題ですが、
政府からポンドなどの外貨で調達するなら、手形の形で板垣に渡して、ヨーロッパの銀行から下ろして使う形にしそうです。
ただ、地方の資産家の資金がヨーロッパ銀行の手形として渡されそうな気はしないです。
でも、日本円なんかヨーロッパに持っていってもしょうがないですよねえ。。。
銀とかで渡したのかなあ。。。でも、2万ドル分の銀とか持っていけないですよねえ。。。やっぱ手形かなあ。。。
はい、わかりません。情報求むです。調べがついたら追記します。
1
0
3
順大 古川
2025年5月25日
In Q&A
まずは、国史大辞典を使って、1870年代の士族の反乱事件を一覧してみます。
①1874年:佐賀の乱・佐賀
首謀者:江藤新平
背景:地主の不満。米価冒頭。天然痘流行。
直接の原因:佐賀出身の江藤新平・副島種臣の免官。大久保利通配下の佐賀権県令が佐賀県地方の不平士族を弾圧しようとした。
備考:反乱士族一万一千八百二十名、有罪四百十名、戦死百七十三名。
②1876年10月:敬神党の乱(神風連の乱)・熊本
首謀者:大田黒伴雄
背景:敬神党という攘夷主義勢力が強く残っていた。
直接の原因:同年の廃刀令への反意。
備考:百九十余の同志とともに決行。自刃富永・阿部ら八十六名、斬罪三名、終身刑四名、懲役四十一名、放免二十九名、逃亡して西南戦争に参加した者四名。
③1876年10月:秋月の乱・福岡
首謀者:宮崎車之助
背景:守旧派士族が政府の開化制作に反発。征韓論主張。
直接の原因:敬神党の呼びかけに呼応。
備考:参加者は約二百三十名といわれる。
④1876年:萩の乱・山口
首謀者:前原一誠(元参議)
背景:前原とその配下が地租改正や士族解体政策に不満。
直接の原因:敬神党の乱に呼応。
備考:旧長州藩の士族三百三十二名が蜂起。
⑤1877年:西南の役でごわす・鹿児島でごわす
首謀者:西郷隆盛でごわす
背景:西郷の失脚と明治政府への不満でごわす
直接の原因:鹿児島草牟田陸軍火薬庫の弾薬が私学校派の手にわたるのをおそれ、従来の慣例に反して県庁に連絡せず、ひそかに搬出をはかった件でごわす。
備考:一万三千の鹿児島士族は、政府密偵の西郷暗殺陰謀に対する尋問を理由に武装して進発を開始した。もはや西郷も同調せざるをえなくなり、かれは翌十五日に出陣したでごわす。西郷軍の総兵力は約三万名でごわす。
次に、同じく国史大辞典を使って、1880年代の激化事件を一覧してみます。
⑥1881年1月:福島事件・福島
首謀者:河野広中
指導者層:自由党系士族・農民
背景:福島県は明治初年以来東北地方における自由民権運動の中心的拠点だった。
直接の原因:県令三島通庸の三方道路建設計画に反対。
備考:数千の農民が喜多方警察署に押しかけ警官隊と衝突。
⑦1883年3月:高田事件・新潟
首謀者:八木原繁祉
指導者層:自由党員
背景:新潟県頸城(くびき)自由党という自由党の地方拠点の活動の中心地。
備考:自由党員二十三名が内乱陰謀罪容疑で逮捕され、のち逮捕者は党外の人を含む三十七名に達した。
⑧1884年5月:群馬事件・群馬
首謀者:清水永三郎
指導者層:自由党員
背景:松方デフレによる不況
直接の原因:自由党員清水永三郎らの煽情。官吏暗殺計画の失敗。
備考:妙義山陣馬ヶ原に蜂起した。その数は、数千名(『東陲民権史』)とも二百名(『郵便報知新聞』五月二十日、『自由燈』五月二十四日)ともいわれており、正確を期しがたい。
⑨1884年9月:加波山事件・茨城
首謀者:富松正安など
指導者層:自由党員
背景:自由党員の度重なる暗殺計画失敗。
直接の原因:警察の立ち入り捜査。
備考:全員が逮捕され、富松以下七名が死刑、七名が無期徒役、四名が九年から十五年の有期徒役に処せられた。18名。
⑩1884年10月:秩父事件・埼玉
首謀者:困民党
指導者層:負債農民
背景:松方デフレによる不況。困民党の結成。
直接の原因:
備考:約3000人?軍隊とも衝突。
⑪1884年12月:飯田事件・長野
首謀者:村松愛蔵
指導者層:民権活動家
背景:民権活動家の拠点。松方デフレによる不況。
直接の原因:自由党の解党。秩父事件に呼応。
備考:火薬の搬入から事前に発覚し、十二月初旬に同志は各地で逮捕され、村松以下六名が内乱陰謀罪で処刑された。
⑫1884年12月:名古屋事件・愛知
首謀者:大島渚
背景:自由党員の政府転覆計画。
直接の原因:自由党員が50回以上の強盗をして警察殺害もしていたときに、一味の人間が検挙された。
備考:30人くらい?
⑬1886年6月:静岡事件・静岡
首謀者:
背景:自由党員が静岡県内各地で強盗を繰り返す。
直接の原因:大臣暗殺計画と挙兵計画が発覚。
備考:逮捕者100名以上
以上の傾向から推察するに、
1870年代に西日本を中心に士族の反乱が起こった理由は、
多くの士族を抱えた西南雄藩が西日本に集中していることと、薩長土肥出身の政府指導者層が多く在野に下ってきており、不平士族の中心となったと言えるでしょう。
要は、薩長土肥が西日本にあったということですね。
西郷までもが倒されたことにより、武力の結集核となれる人物が西日本にはいなくなりました。また、武力反乱は不可能だという認識も強くなったと推察されます。
政治の中心が東京に移り、板垣退助も東京に住んでいます。
自由民権運動は東日本にも広がり、1881年に結成された自由党が東京を中心に農村まで全国各地で遊説を行って、農民からの支持を得ていきました。
ここに、松方デフレによる農民の困窮が加わったと言えるでしょう。
1
0
5
順大 古川
2025年5月25日
In Q&A
明治五年(1872年)に「代言人(だいげんにん)」の制度を設けて、訴訟を代理する代理人である代言人の制度ができる。
明治九年(1879年)の「代言人規則」によって、試験に合格した者だけが代言人になれるという免許制・国家資格制度になる。
明治二十六年(1893年)の弁護士法(旧弁護士法)の制定によって、代言人は弁護士と呼ばれるようになる。
(以上、国史大辞典)
とあるので、激化事件の時期に日本には弁護士はいないです。
なので、先日の話題にでた「弁護士」というのは、当時その人は代言人だったのを今の観点や分かりやすさから「弁護士」と表記した(もしくは単純な誤り)のか、1893年以降の裁判で弁護士として弁護したのかのいずれかということになります。
0
0
3
順大 古川
2025年5月25日
In Q&A
板垣を襲った相原尚褧(あいはらなおふみ)は、愛知県の小学校教員でした。
政治的には政府側に近い漸進主義を支持していました。
(このあたりは添付のPDFの123ページ「訊問調書」、128ページ「訊問口供抜抄」にあります。読めない人は、Wikipediaの相原尚褧のページの「性格と思想」を参照してください)
そんで、国会が開設されることが決まったにも関わらず、急進主義の自由党や板垣退助が存在するのは国家の大害であるとして、板垣退助を襲ったのだ、と添付の「公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年」(明治15年・太政官作成・国立国会デジタルアーカイブ)の「調書」で言っています。
なお、板垣が刺されたときに言った「板垣死すとも自由は死せず」という”名言”がどのような変遷をたどったのかについては、うえまつ先生が教えてくれたアジア歴史資料センターの「板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」の記事や、以下の表を参考にしてください。
参考資料:公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年
参考文献は、中元崇智『板垣退助 自由民権指導者の実像』(中公新書・2020年)です。
これに書いてあったことでおもしろかったのは、「(板垣は)相原尚褧に襲撃される。右胸、左胸、左頬に加えて、右手と左手を二ヵ所ずつ、合計七ヵ所を刺されたが幸い軽傷で済んだ」という部分です。胸を含めて七ヵ所刺して軽傷って、どないやねん。
1
0
2
順大 古川
2025年5月20日
In Q&A
以下のものが日本独自の建築技術といえそうです。
・檜皮葺(ひわだぶき):樹齢数百年のヒノキ外樹皮を数ミリ厚に剥いで重ね、30年以上耐候する屋根。
・杮葺(こけらぶき):サワラ・ヒノキなどの薄板(こけら板)を重ねる超軽量屋根。
建築様式なら
・校倉造:三角断面の丸太を井桁に積み、柱を立てずに壁そのものが荷重を負う高床式倉庫構法。
・書院造:室町時代に発展した住宅様式で、障子や床の間を備える。
・合掌造:屋根勾配 60–75°の巨大茅葺を合掌梁で支え、養蚕のため多層空間を確保。
1
0
3
順大 古川
2025年5月20日
In Q&A
参考文献は、平林盛得『良源』(吉川弘文館・1976年)です。
◆教学と良源
まず、「教学」とは「ある特定の宗派の教理に関する学問」(国史大辞典)です。
良源が属する比叡山延暦寺は天台宗なので、今回の場合の教理とは「天台宗の教え」ということですね。
最澄は、弟子の修学コースを2つ設けました。一つが顕教の止観業で、もう一つが密教の遮那業です。
止観業では、法華経・金光明経・仁王経などを学びます。
遮那業では、遮那経・孔雀経・不空経・仏頂経などを学びます。
これらの「業」=「教学」で、同時に「業を修める修行・学習」=「教学」という用法もあるようです。テキストのは後者の用法ですね。
テキストにあった、良源が「教学も奨励した」とは、良源が比叡山の僧たちに天台宗の教えをよく学ぶように奨励したということです。
私は、歴史部のときに「天台宗が密教化していたから、密教から顕教の教えに立ち返るように奨励したのでは」と推測しましたが、いつものパターンで、少し違いました。
確かに、密教化が進んでいた当時の延暦寺では、遮那業が隆盛していました。
さて、この話はいったん中断して、次の論議の話のあとにもう一度触れなおすことになります。
◆論議と良源
「論議」とは、経論の意味などにつき問答を行うもので、天皇の御前で行うもののほか、勅使の前で行うものや、私的に行うものがありました。
例えば、維摩会の論議では「与えられた論題に対して自分の意見を述べることで、その意見の当否によって僧侶の学力が計られる。出題者が探題(たんだい)、回答者が堅者(りっしゃ)、回答に対して意見を述べるのが講師」(参考文献)といった様子です。こうした公的な論議の場合は、堅者の論述テストのような様子になります。ただし、私的なものになると、かなり場外乱闘的に宗派対宗派の赤裸々な争論の場になったようです。
なお、「論議」は「宗論」とか「問答」とも呼ばれることがあります。みなさん的には、織田信長の「安土宗論」なんかは聞いたことがあるかもしれませんね。安土宗論は私的な論議なんです(信長をその勢力圏内における公的権力と考えるならば、公的な性質を強く持つともいえますが)。
実は、良源は若いときから論議の延暦寺代表選手として大抜擢されて、公的な論議でも私的な論議でも、大勝利を積み重ねてきた人でした。
◆良源の「教学の奨励」
良源は55歳というぶっちぎりの若さで、比叡山延暦寺……というかある意味日本仏教界のトップである天台座主に就任します。それまでの天台座主は円珍とかを除けばみんな60代後半から70代での就任なので、ほんとに良源は若いです。
天台座主となった良源は、延暦寺改革案十箇条を天皇に奏上して、そのうちに二箇条が許可されます。
そのうちの一つが、「叡山全体の修学意欲の向上を計」(参考文献)り、「弟子僧の向学心をそそ」(参考文献)るための名誉職の設置です。この名誉職を広学堅義(こうがくりゅうぎ)と言います。広学堅義とは、ぶっちゃけると「論議を極めし者」に与えられる称号です。
超絶名誉である広学堅義となるためには、数多くの大会(論議)で優勝して、天台論議杯(TENDAIRONGIワールドカップ)ともいうべき最澄の命日の法華会の論議に登壇する必要があります。こうして、広学堅義を目指して良源の弟子たちは猛勉強するようになって、延暦寺の教学レベルがアップしたということです。これが、テキストにあった「教学の奨励」だったわけです。
良源は良家の生まれでもないのに、若いころから学問を修め、論議での勝利を積み重ねることによって出世して、実質的には最年少という若さで天台座主に上りつめた人でした。(摂関家とのつながりを作ったという面があるとはいえ、)本質的は、ひたすらひたすらひたすら猛勉強を続けて学問一本で仏教人生に勝利した人間なんです。
そんな良源だからこそ、弟子たちにも学問をがんばってほしかったのだと思いますし、教学によってこそ比叡山や仏教界は興隆するのだという考えをもっていたのでしょう。
最澄の命日の法華会の論議では、当然法華経の奥義についての問答が行われます。つまり、広学堅義となるためには法華経を学びまくらないといけないのです。
ここで、最初の「教学と良源」の話を思い出してください。そう。法華経は顕教の経典です。広学堅義となるためには、顕教の経典を学ぶ止観業という教学を集中して学ばまいといけないのです。逆に言えば、密教系の遮那業は副教科になるということです。このことは、当時密教系の遮那業が隆盛していた延暦寺において、良源の弟子たちは「密教から顕教の教えに立ち返る」ことを意味しますね。
◆ここまでの結論
良源は自らの経験に基づき、学問こそが僧にとっても延暦寺にとっても重要であるという考えで「教学を奨励した」。
良源は顕教の経典をよく学んだものに広学堅義という名誉をあたえることによって、延暦寺僧に密教ではなく顕教をよく学ぶように導いた。
ということになります。
ちなみに、良源が天台座主となったころに比叡山は大火事にみまわれます。この火事からの復活と、ここまで語ってきたような話、そして今回は触れなかった延暦寺の経済基盤の整備などをもって、良源は「比叡山中興の祖」と呼ばれているそうです。
1
0
7
順大 古川
管理者
その他
bottom of page