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未来への”OneStep”
フォーラム記事
順大 古川
2025年8月24日
In Q&A
縄文時代中期末(約4千年前)から大規模拠点集落が衰退して、集落が拡散分散するのですが、
その理由は「三内丸山遺跡の終焉」(青森市)によると、
1 気候が寒冷化し、海が遠くなり、針葉樹が増えたために食料が減少した
2 祭りや宗教など、これまでと違う新しい社会の仕組みになった
3 長い間、同じ土地で生活したために環境汚染や伝染病などが発生し、この場所では生活できなくなった
などの説があるそうです。
縄文時代全体の気候変動と、それに対応する集落の盛衰などについては、鈴木保彦氏の講演がまとまっていて分かりやすいです。
→鈴木保彦「気候変動と縄文集落の変遷」(令和4年度かながわの遺跡展講演会資料)
なお、鈴木氏は上記の講演で、気候変動だけでなく海流の変化にも注目すべきではないかという問題提起をしています。
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順大 古川
2025年8月24日
In Q&A
いくつか調べてみたのですが、
国史大辞典に「題名は「江戸前うなぎの蒲焼」のもじり。」とあるように、「うなぎ←→うわき」に意味があるだけで、
「蒲焼」のほうは言葉を整えるだけのようです。
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順大 古川
2025年8月20日
In Q&A
まず、国史大辞典で防穀令事件を確認しておきます。
日朝修好条規締結(明治九年(一八七六))後とみに盛んになった日本商人による穀物(米・大豆)の対日輸出を、朝鮮側が阻止しようとしたことから発生した日朝間の紛争事件。防穀とは元来、李朝時代、朝鮮で地方官が、自己の行政管轄内で凶作・兵乱などによる穀価の騰貴を防止するため、穀物売買・運搬の禁止、購入穀物の差し押えなどを行うことをいう。日本との貿易開始後、余剰農産物でもない米・大豆の日本商人による日本への大量輸出が始まり、穀価が騰貴し、防穀は朝鮮の支配層にとって欠くべからざる政策となった。したがって、明治十六年七月に調印された「朝鮮国に於て日本人民貿易の規則」第三十七款では、朝鮮の地方官が一ヵ月前に日本領事官に予告して防穀を行うことができるのを認めていた。防穀令は、一八八四年から一九〇一年の間に二十七件を数える。その中、明治二十二年五月、黄海道観察使趙秉轍、同年十月から翌年五月にかけて咸鏡道観察使趙秉式、同二十三年三月、黄海道観察使呉俊泳が発令した三件の防穀令は、それぞれ居留地日本商人がその解除を求め、朝鮮政府に賠償請求を行い、紛争が日本と朝鮮の外交問題に発展した点で著名である。三件ともそのつど、在朝鮮の日本外交官が朝鮮政府に抗議し、その撤回や当該地方官の処罰などを求め、事態は落着したものの、日本商人は日本政府を動かし、政府もまた初期議会の対外強硬論に対処するため、明治二十四年十二月、改めて梶山鼎介公使をして十四万七千余円の損害を朝鮮政府に請求、重大な紛争に発展した。交渉は難航し、翌年第二次伊藤内閣は外相陸奥宗光の指導のもと、自由党員大石正己を公使に起用、新たに要償額を十七万余円にして強硬姿勢をとり、これに応じない朝鮮政府に対し、外交断絶までほのめかし、裏面で清国の李鴻章に斡旋を依頼し、ようやく明治二十六年五月、賠償金十一万円で妥結した。
上の赤字の部分が、テキストにあった防穀令事件です。
そんで、歴史部のなかで国史大辞典を確認したときに、予告がなされてなかったりしてこじれたのかもしれませんね、といったことを話しました。
それで、吉野誠氏の論考を読んでみました。
吉野氏によると、国史大辞典の該当記事を書いた唐沢たけ子氏などの先行研究によると、防穀令の予告から実施までに一ヶ月なかったことが問題だと日本側が主張したと言われているそうです。
しかし、吉野氏は史料にある「十月底」の語の解釈などをもとに、防穀令の予告から実施までは1ヶ月の期間をとって条約を遵守しており、日本側もこの期間を問題していなかったことを指摘しました。
そして、日本側は朝鮮が防穀令を出すときに、日本の同意を得なかったことを主に問題としたとします。
なお、朝鮮側の主張は、今回は日本の同意を必要としないケースであり、防穀令の対象も朝鮮人間の取引であるから問題ないはずだといったものでした。
防穀令事件については、上記の吉野誠氏のものが新しくて詳しいので、調べるときは吉野氏の論文にあたって、必要に応じて唐沢氏の論考も確認するといいと思います。
吉野氏の論文は1と2はwebで見られたのですが、3はまだweb上では公開されていなかったので、見れてません。今回のテーマについては1だけ読めば大丈夫です。
参考文献:
1,吉野誠「咸鏡道防穀令事件ー事件の発生ー」(『東海大学文学部紀要』66巻・1998年)
2,吉野誠「防穀令事件の外交交渉ー賠償請求から大石・趙交渉の停頓までー」(『東海大学文学部紀要』88巻・2008年)
(3,吉野誠「防穀令事件の外交交渉ー最後通告から妥結までー」(『東海大学文学部紀要』・2013年)
(4,唐沢たけ子「防穀令事件」(『朝鮮史研究会論文集』六))
(追加、吉野誠「咸鏡道防穀令事件ー賠償請求案の検討ー」(『東海大学文学部紀要』66巻・1997年))
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
衆議院本会議で可決 1971年11月24日
参議院本会議で可決 1971年12月22日
です。これで、批准完了です。
参考:沖縄県公文書館・琉球政府文書「復帰措置に関する建議書」資料解説
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
いくつか本とかを読んだ感想なんですが、ポルトガルの拠点であり、中国産生糸の仕入れ地となるマカオが一番価値があるのかなあ、、、と。
情報求むです。
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
基本的には所有者と雇用人の関係なのですが、いくつか辞書とか資料を読んで、、、微妙な違いが分かったような分からないような、、、って感じです。
網主と網子は、もともとは同僚だったケースもあり、協同的にみえました。国史大辞典を見たところ。
塩田の所有者である浜主と浜子の関係は地主と小作の関係のように、所有者が現地に不在で権利だけもっているものもあるそうです。参考:愛媛県生涯学習センターの記事
山主は、それが藩主や大寺院である場合もあることが特徴かなあと思いました。日本国語大辞典を見たところ。
うーん。なんかぼんやりしててゴメンなさい。。。
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
北条氏康が作成した、戦闘動員に関わる定書(北条家定書(天正15年7月晦))からは、「十五、七十を切りて」と、15歳から70歳が動員対象だったことが分かります。
兒玉良平ほか「日本中近世移行期における戦争と軍事動員」(『都市文化研究』27号・2025年)によると、武田家も同様で、徳川家も15歳~60歳と似たような動員をかけていたそうです。
というわけで、15歳からは戦う年齢だったことが分かりました。
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
①国債依存率
英語論文なので、少し読み取りに自信がないのですが、
第二次石油危機までに年金・医療などの経費が増加していたりするなか国債依存度が高止まりしていて、それに第二次石油危機が追い打ちをかけたということでよさそうです。
80年以降に減ったじゃないか、というよりも79年だけさらに上がったという感じです。
参考文献:
Enatsu Akane'Fiscal Debate over Japan's Special Deficit-Financing Bond Act 2012'
Takeshi Fujitani'Missing the point: facts and rhetoric about Japan's fiscal crisis'
②第二次石油危機の経済成長率への影響が第一次石油危機のときの影響に比べて軽微だった理由
内閣府の経済社会総合研究所の記事によると、
・第一次石油危機のときの経験をいかした学習効果
・設備投資の堅調さ
・景気局面の違い:第一次のときよりも第二次のときのほうが経済が安定していた
・財政金融政策などの政策が適切に行われた
・省エネルギー化の成功
が原因としてあげられるそうです。
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
10~11世紀は「現地を強力に統治して統治責任を負う」という機能に注目して論じられているという文脈だったため、「受領」という呼称が用いられやすく、
12世紀以降になると、現地を統治しているか否かというよりも、立場・地位として任じられたという面に注目して論じられているため、「国守」という呼称が用いられやすくなったと考えました。
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順大 古川
2025年8月14日
In Q&A
北里研究所を設立する以前に、北里柴三郎は福沢諭吉などから資金調達して伝染病研究所を設立したり、国費で留学したりしています。また、先祖代々の資産家というわけでもありません。
ところが、伝染病研究所を去った北里が私立北里研究所を設立するときは、「研究所設立の資金三十余万円」(『北里柴三郎伝』)を「私財」(『北里柴三郎伝』)でまかなっています。これは、今の感覚でいうと数十億円に相当し、北里柴三郎の給与だけでは到底まかなえない金額です。
『北里柴三郎』や「三田評論オンライン」によると、この資金は、伝染病研究所の資金調達のために開設した土筆ケ岡養生園(つくしがおかようじょうえん)という結核専門病院の儲けの蓄積だそうです。土筆ケ岡養生園は福沢諭吉のアドバイスに基づいて、福沢諭吉が提供した土地に建てられたものでした。なお、北里研究所もこの養生園の敷地内に建てられています。
参考文献:
北里研究所『北里柴三郎伝』(岩波書店・昭和7年)
福田眞人『北里柴三郎 熱と誠があれば』(ミネルヴァ書房・2008年)
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順大 古川
2025年8月11日
In Q&A
テキストには上記のようにありましたが、領知は僧侶・神職・公家個人にではなく、組織としての寺院・神社や、公家の家に与えられました。
品川区のサイトによると、幕府から与えられた領知を朱印地と呼びます。なお、大名から与えられたものは黒印地と呼びます。
同じサイトによると、一般の寺院の朱印地は10石程度だったそうです。貧乏旗本が100石ぐらいですから、まあたいした土地ではありませんね。ただ、寺社などは田畑以外の収入が多いから、朱印地の石高だけでは寺社の経済状況ははかれません。
一般の寺院は上記のように10石程度でしたが、全国トップクラスのいくつかの寺院、寛永寺・増上寺・高野山や、神社の日光東照宮は、例外的に1万石以上の朱印地が与えられていました(レファレンス協同データベースなど)。
神職への影響力が強い吉田家の領知は766石で、公家の中では多い方だったそうです(幡鎌一弘「十七世紀中葉における吉田家の活動」)。まあ、天皇家の領地でも数万程度だったから、納得いく数字ではあります。
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順大 古川
2025年8月11日
In Q&A
江戸時代についてみてみたところ、
「小作人にとっての小作料は地主と領主によって収奪される小作年貢という意味になり、領主・地主・小作人の三者による分配はおおむね三分の一ずつであった」(国史大辞典)
とありました。
小作料は3分の2だったというわけです。
越谷市のサイトにあった、天保年間の実例を見てみても、収穫量の半分~3分の2程度を納めていたようです。
五公五民の時代はどうだったかは、見つけたら追記します。
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順大 古川
2025年8月11日
In Q&A
国史大辞典によると、「需給関係の緩和とともに、乳製品・鳥肉・茶・錫などから統制廃止が始まり、二十四年にドッジ=ラインが実行されるなかで、急速に統制廃止が進んだ。戦後の衣料切符制(二十二年十月実施)も、人絹製品は二十四年に、その他製品については二十五年九月に実質的に廃止された。二十七年四月一日に臨時物資需給調整法は廃止され、主食のみが配給制の対象に残った。」とあります。配給ではありませんが、衣料品の切符制は1950年まで続いたわけです。
昭和館のサイトによると、酒類への統制は1949年5月に解除されて、同年7月に酒類配給公団が廃止されたそうです。
たばこと塩の博物館のサイトによると、「昭和25年(1950)には、たばこの割当配給制度も廃止され」たそうです。
先に国史大辞典に「二十七年四月一日に臨時物資需給調整法は廃止され、主食のみが配給制の対象に残った」とあった件ですが、レファレンス協同データベースに『日本経済史 4』(東京大学出版会・2007年)を引いて「1951年3月全ての雑穀の規制解除。1952年6月に麦類が間接統制に移行。」とあります。
なので、国史大辞典の「主食」は米のことを指すと思います。
米だけは別格で、食料管理制度が継続し、国立公文書館アジア歴史資料センターによると、「1969(昭和44)年に政府を通さずに流通する米を一部認めた自主流通制度が発足すると、やがて米穀通帳制度は形骸化していきます。1982 (昭和57)年1月、改正食糧管理法が施行されると、通常時の厳格な配給制度が廃止され、自主流通制度の法定化がなされました。」とあり、なんと米の配給制度は1982年まで形式的には継続していたそうです。
ちなみに、私は1982年以前に生まれたのですが、米の配給を意識したことがないのは、1969年以降は形骸化していたからでしょうか。
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順大 古川
2025年8月09日
In Q&A
明治時代の生活習慣を変えていこうという運動は多岐にわたるようですが、
基本的に、
府県庁や地域指導者層が、
人前での裸体の禁止・土着信仰の抑圧・物乞いの規制・衛生・髪型・風俗の改変などを指導していったようです。
参考文献:
岩城卓二他編『論点・日本史学』(ミネルヴァ書房・2023年)
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順大 古川
2025年8月09日
In Q&A
尾張は西から東に攻め込むときの交通の要衝なので分かるし、ちょくちょく言及もされているのですが、、、ほかの2つは言及が見つからないですねえ。。。
Wikipediaでは、紀伊も水戸も要衝だから的な言い方をしているのですが、典拠がないのでおそらくライターが勝手に想像して書いただけだし。。。
水戸徳川家とか紀伊徳川家の成立事情を見ると、頼宜が2歳で水戸領を与えられて、その後頼宜が11歳で紀伊領を与えられることから始まっています。これをみると、逆に重要じゃない地点にとりあえず置かれたようにさえみえます。
情報求むです。
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順大 古川
2025年8月09日
In Q&A
沖縄県公文書館のサイトによると、
「1970年11月、国政参加選挙が行われ、衆議院議員に瀬長亀次郎、上原康介、安里積千代、西銘順治が、参議院議員に喜屋武真栄、稲嶺一郎が当選」したそうです。
なお、他の記事によると、戦後初の市議会議員選挙は1945年9月20日に行われたそうです。
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順大 古川
2025年8月09日
In Q&A
国史大辞典によると、
煎海鼠(いりなまこ)・干鮑・鱶鰭(ふかひれ)を俵物とよんで、その他の海産物(昆布・鯣・鶏冠草・天草など)は諸色と呼んだそうです。
これは正徳期にも通じるようです。
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順大 古川
2025年8月09日
In Q&A
まず、占領軍によって1946年に短波放送の受信が許可されました。
放送協会認定制度が再開しました。
1949年6月1日、逓信省が電気通信省と郵政省に分割されて、電波行政は外局の電波庁が管轄することになりました。
1950年6月1日、4月に成立した「電波法」「放送法」「電波監理委員会設置法」の、電波三法が施行されました。
この電波三法、特に放送法によって民間放送の開局が決まり、翌1951年に民間ラジオ放送が始まりました。
ようすると、前年に放送法が成立したからですね。
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順大 古川
2025年8月08日
In Q&A
外務省のサイトに、全27回の正式交渉会議の議事録がありました。
それによると、「東京外務省に於て集会す」と、外務省で開かれたことがわかります。
会場については、第一回会議の議事録にしか明言はされていないのですが、第二回~第二十七回の議事録に会場を変えた話はでてこないし、状況を鑑みても、全部外務省と考えていいでしょう。
なお、予備会議も外務省で開かれています(同じページでこちらも議事録が公開されています)。
外務省の場所は、火事やらで一時的に仮庁舎に移っていた時期とかもありますが、基本的には霞ヶ関 2-2-1です。江戸時代には黒田藩邸があった場所ですね。
外務省は日比谷公園の西側のエリアにあって、日比谷公園をはさんだ東側に鹿鳴館がありました。
参考文献:外務省記録局『外務省沿革略誌』(明治22年)
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順大 古川
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