大友・大村・有馬のキリシタン大名たちの同盟関係は?
経過報告
今んとこ、下の年表まで作成。
1557年(弘治三年):大友義鎮(宗麟)の弟の大友義長が毛利氏に負けて、周防・長門という本州の土地を失う。
1559年(永禄二年):大友氏、毛利に豊前まで攻め込まれる。
(このころ、肥前・筑前で龍造寺氏が勢力を伸ばす)
⇢つまり、このころの大友氏は東では毛利氏と戦い、西では龍造寺氏と戦うという状況
1564年(永禄七年):大友宗麟が毛利氏に敗北したあとに、一応の和睦が成立する。
1566年(永禄九年):大友宗麟は、尼子氏を滅ぼした毛利氏に再び攻め込まれる。
1569年(永禄十二年):毛利氏が九州から撤退する。
1570年(元亀元年):大友氏は、龍造寺隆信・鍋島直茂に大敗する。
⇢有馬氏がいる島原半島まで、龍造寺氏の侵攻が迫ってくる。
1578年(天正六年):大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗して、九州では島津氏の勢力が突出する。
1584年(天正十二年):有馬氏は島津氏に救援を求め、島津氏が龍造寺隆信を討ち取って龍造寺氏は崩壊する。
参考文献『一揆と戦国大名』日本の歴史13(久留島典子・講談社)
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まず可能な限り雑に北部九州の戦国大名の盛衰をみておくと。
大内義隆が陶晴賢に敗れる(厳島の戦い・1555年)
→大内氏の勢力が後退して大友氏の勢力が強くなる
→大友宗麟が島津に負ける(耳川の戦い・1578年)
→龍造寺隆信の勢力が強くなる
→龍造寺隆信が島津に負ける(沖田畷の戦い・1584年)
→大友が少し復活して島津が強くなるけど、豊臣秀吉が入ってきて九州勢力は一掃される
ってな感じです。
大友宗麟は九州のトップ争いに絡んでくる九州ティア1大名ですが、有馬はティア2で、大村はティア3の大名となります。
断片的になりますが、
大村純忠は有馬氏からの養子で、有馬晴信の叔父にあたります。有馬氏と大村氏は密接な同盟関係にありました。大村氏のほうが格下です。また、大友と大内が争っていたころは、有馬氏は大友側につくことが多かったようです。1560年代の有馬氏は、龍造寺氏に対抗するために大友氏をよく頼っていました。
1570年、大友宗麟が龍造寺隆信を攻めたときは、有馬氏は龍造寺氏側についています。
1576年、有馬氏の傘下にあった大村純忠が、龍造寺隆信の傘下に入ります。
1579年、大村純忠が龍造寺氏の傘下に入ります。
1582年、有馬氏は龍造寺氏から離反して、島津氏に支援を要請します。
1583年、島津氏が助けてくれなかったので、有馬氏は龍造寺氏に降伏して、龍造寺配下に戻ります。ただ、有馬氏はまだ島津氏に手紙を送ったり、大友氏に援軍を要請したりしています。
1584年、島津氏が本格的に龍造寺氏を攻めて滅ぼしたときは、有馬氏はガッツリと島津側についています。
有馬とその親戚の大村は龍造寺よりも西にいて、龍造寺氏が強くなったあとは大友との関係はそこまで深くなったことはないようです。1582年の天正遣欧使節のときも、大村純忠と大友は事前協議していないそうです(『戦国武将列伝11 九州編』)。
参考文献:
山本浩樹『西国の戦国合戦』(吉川弘文館・2007年)
新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』(戎光祥出版・2023年)