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Q&A

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日独防共協定(1936年)後の独中関係は?

『論点・日本史学』によると、


「田嶋信雄が、1920年代末から中国に軍事顧問団を派遣するなど、長年中国に対する軍事援助を行っていたが、対ソ戦遂行のための新しいパートナーとして日本に目を向けるようになり、1938年に国民政府と事実上国交を断絶し、1940年に日独伊三国軍事同盟を結んだ流れを示した」


とあります。

田嶋信雄の本は高いので、図書館で調べられたら、追記します。

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順大 古川
順大 古川
Aug 15, 2024

田嶋信雄『ナチス・ドイツと中国国民政府 一九三三ー一九三七』(東京大学出版会)

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工藤章・田嶋信雄編『日独関係史 一八九〇ー一九四五 I 総説/東アジアにおける邂逅』(東京大学出版会・2008年)

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を図書館で調べてきました。朝から1時間半歩いて図書館に行ったので、真っ黒に日焼けしました。図書館に入ることには汗だくで汗臭プーだったので、まわりのみなさんに多大なメイワクをかけていたと思います。


日独防共協定は1936年11月25日です。

1937年7月7日に日中戦争が始まっても、ドイツは前年の5倍ぐらいの武器を中国に輸出していました。また、国側の記録によると、8月13日の上海での戦闘には71人のドイツ軍事顧問が参加したといいます。

しかし、1937年11月5日以降、ヒトラーはヨーローッパでの侵略戦争を進めるために、イギリスに対抗する同盟を作り上げる方向に進み始めました。すなわち、イタリアと日本との友好関係を強化する方向性です。なお、日独防共協定にイタリアが加入したのは11月6日です。

1938年2月、ヒトラーはドイツ国防軍首脳部内の親中派などの粛清に乗り出しました。

1938年2月、ドイツは満州国を承認します。

1938年3月、ドイツはオーストラリアを併合し、次はチェコスロバキアを狙います。この一連の行動は英仏を刺激します。そこで、ドイツは日本との連携を深める方向性を強め、1038年6月、在中国ドイツ大使のトラウトマンや軍事顧問団をドイツ本国に引き上げさせました。

1938年4月、ドイツは対中国武器輸出を禁止して、ドイツと中国の国交は事実上断絶しました。


しかし、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれます。これは日本とドイツの関係の冷え込みも意味しているため、独ソ不可侵条約締結後に、中国とドイツが接近する動きが見られるようになります。面白いのは、中国はいわゆる援蒋ルートでアメリカとイギリスの援助を受けながらも、ドイツに対して反イギリスで手を組もうとしているところです。

1940年6月22日にドイツがフランスを降すと、ヨーローッパのほとんどをドイツ側が支配するという情況が生まれます。このドイツが強いという情況に日本が便乗しようとした話は有名です。さらに、中国もこの情況に期待して一気にドイツに接近しようとします。もちろん、英米の援助を受けながらですよ。


1940年7月22日にイギリスがドイツの講話案を蹴とばすと、ドイツは対ソ連戦争に向かい始めます。というわけで、ソ連の背後にいる日本(とイタリア)と、1940年9月27日に日独伊三国同盟を結びました。

日本はドイツの力に期待を持ち続け、中国との仲介などをドイツがしてくれることを期待します。しかし、中国は違いました。

イギリスがドイツに屈さず、アメリカが対中国援助を拡大したため、中国にとっては枢軸側に加わるメリットは激減していたのです。


日本はドイツと同盟しつつ、ソ連と1941年4月13日に日ソ中立条約を結びます。しかし、ドイツが1941年6月22日に独ソ戦を始めたため、日本政府と軍部の意見は分かれます。一つが、ソ連がドイツと戦っている間に資源問題を解決するために南方に進出しようという「南進論」で、もう一つが、ドイツとともにソ連を挟撃しようという「北進論」です。

結局日本は南部仏印進駐という形で南進し、12月8日には対アメリカ戦争も始めました。日本がアメリカを牽制する役割を担うことを期待していたドイツにとっては望み通りの展開であり、ドイツがこの後中国に近づいていくことはなかったようです。

また、中国側も1940年ごろからはドイツに積極的に接近することはなかったみたいです。

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