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Q&A

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織田信長について。

織田信長は鎌倉幕府を滅亡させた後、なぜ北条家の支配している関東を支配下に収めなかったのですか?

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順大 古川
順大 古川
08. jul. 2024

一応の前提として、織田信長は室町幕府の将軍足利義昭を1573年に京都から追い出したとはいえ、足利義昭は名目的には将軍のまま西の鞆(現福山市)を拠点として反信長運動を続けました。また、天下統一を目指すために、信長は京都や安土という尾張よりも西に重心を置く必要がありました。


さて、本題です。

下の地図は信長が本能寺の変で倒れた1582年6月段階のものです。



信長は甲斐国と信濃国で北条氏と接しているのですが、武田勝頼を滅ぼして甲斐国を手に入れたのは、本能寺の変のわずか数ヶ月前の1582年3月のことなのです。


信長は武田家を滅ぼしたあと、滝川一益を信濃・上野・甲斐方面に派遣して北条氏の関東をうかがうのですが、なにぶんわずか2~3ヶ月なので、滝川一益もあまり北条氏攻撃はできていません。


要は、これから北条氏の関東を支配下に収めようと動き始めたら、すぐに信長が死んじゃったということです。

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