
歴史部|明治初期の教育・宗教政策と外交
【歴史部日記(中学生・高校生)11月4日】
歴史部|明治初期の教育・宗教政策と外交
重要なポイント
- 明治時代の教育制度(学制)の成立と宗教政策について学習した
- 開成学校と現在の開成中学・高校の関係について調査・議論した
- 学制がフランスをモデルにした理由について考察した
- 神仏分離政策と廃仏毀釈の違いについて議論した
- 国教化と信教の自由の矛盾について議論し、二段階の概念で整理した
- 明治初期の外交政策(岩倉使節団、江華島事件、日朝修好条規など)を読み進めた
- 「条規」と「条約」の使い分けについて議論し、中国・朝鮮の慣習に由来するという説が紹介された
議論されたトピック
教育制度の確立(学制)
1872年(明治5年)に公布された学制について、参加者が段落ごとに音読しながら内容を確認した。
・詳細
- Aさん: 1872年(明治5年)、文部卿・大木喬任の指導のもと、政府は実学の精神に基づきフランスの学制を模範とした学制を公布し、功利主義的な教育観のもと全国に小学校が設置されたと読み上げた
- Bさん: 1877年(明治10年)に東京開成学校と東京医学校を統合して東京大学が設立されたこと、中学校・師範学校・専門学校なども整備されたが、教育内容が実生活と乖離していたことや費用負担への反対運動も発生したと読み上げた
- のぶた先生: 学制はフランス一国のみを模範としたわけではなく、アメリカやオランダなど複数国の優れた点を継ぎはぎしたものであり、学区制度についてはフランス流が採用されたと説明した
・結論
- 学制は複数の欧米諸国の制度を参考にして制定されたものであり、フランス一国のみを模範としたわけではない
- 小学校の多くは寺子屋・私塾・郷学校などを母体に再編され、寺院や民家を校舎として利用した
開成学校と開成中学・高校の関係
Cさんの質問をきっかけに、テキストに登場する「開成学校」と現在の私立開成中学・高校の関係について調査・議論した。
・詳細
- Cさん: 「開成学校」は現在の開成中学校・高等学校の名前の由来かと質問した
- のぶた先生: テキストの開成学校は東京大学の前身であり、私立の開成とは別物と考えていたが、調査したところ開成中学のルーツは1871年創立の「共立学校」であることが判明したと説明した
- うえまつ先生: 開成中学・高校のホームページによれば、「東京開成中学校」と改名したのは1895年であると補足した
- うえまつ先生: 開成中学・高校の公式説明では、「開成」の由来は中国の易経にある「開物成務」であり、「人間性を開拓啓発し、人としての務めをなす」という意味だと説明した
- うえまつ先生: 幕府直轄の開成所(洋書調所→開成所)が東京大学へと至る流れを整理した
- のぶた先生: 開成中学の初代校長が高橋是清であることに驚きを示した
- うえまつ先生: 創立者が亡くなったため、1878年に高橋是清が初代校長として就任したという流れを説明した
・結論
- 東京大学の前身である東京開成学校と、私立の開成中学・高校は、学校としての系譜が異なる
- 私立開成は1871年創立の共立学校を起源とし、1895年に「東京開成中学校」へ改称した
- 名称の由来は易経の「開物成務」である
宗教政策(神仏分離令・廃仏毀釈・国教化)
Dさん・Eさんが音読した内容をもとに、明治政府の宗教政策について議論した。
・詳細
- Dさん: 1868年(明治元年)に神仏分離令が発せられ、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたこと、天皇の神格化を基軸とする国家神道の構築が急がれたことを読み上げた
- Eさん: キリスト教に対しては当初弾圧政策を継続したが、欧米諸国からの批判を受け1873年(明治6年)にキリスト教を黙認する方針に転換したと読み上げた
- のぶた先生: 廃仏毀釈は国家命令ではなく、神仏分離令を受けた民衆の運動であることを強調した。国家が命じたのは「神社とお寺を分離せよ」ということのみであると説明した
- Fさん: 国教化と大日本帝国憲法第28条の信教の自由が矛盾しないかと質問した
- のぶた先生: 国教化は「国家がその宗教を保護・中心に置く」ことであり、他宗教を弾圧することとは別であると説明した。また、神道国教化は結局失敗し、1877年に教部省が廃止されたと補足した
- うえまつ先生: 国教化には二段階あると整理した。①国家がある宗教を保護・優遇する段階と、②他宗教を弾圧・禁止する段階であり、明治日本は①にとどまっていたため信教の自由と矛盾しないと説明した。ローマ帝国のキリスト教国教化(392年)は②を伴う例として挙げた
・結論
- 授業では、廃仏毀釈は国家命令ではなく民衆運動であると説明された
- 授業では、国教化と信教の自由は矛盾しないと説明された。国教化を「保護・優遇」と捉え、「他宗教の弾圧」とは別概念として整理した
- 授業では、明治の神道国教化は最終的に失敗し、1877年に教部省が廃止されたと説明された
・編集注
- 神仏分離政策には神社から仏像・仏具などを取り除く措置が含まれた。廃仏毀釈には民衆だけでなく、藩などの地方権力が主導・関与した地域もあった。
- 保護・優遇と弾圧・禁止という二段階は、授業での説明上の整理である。明治初年にはキリスト教弾圧があり、1873年の禁教高札撤去、1889年の憲法第28条による条件付きの信教の自由とは時期を分ける必要がある。
- 1877年の教部省廃止後も宗教行政は内務省へ引き継がれた。「国教化の失敗」は初期政策に関する講師の評価として扱う。
- ローマ帝国では380年の正統キリスト教信仰に関する勅令と、392年の異教祭儀禁止を区別する。授業で挙げられた392年は後者に対応する。
明治初期の外交政策(岩倉使節団・条約改正・江華島事件・日朝修好条規)
Eさん・Cさん・Gさん・Fさん・Cさんが順番に音読し、明治初期の外交について確認した。
・詳細
- Eさん: 1871年(明治4年)に岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団が欧米へ派遣されたことを読み上げた
- Cさん: 使節団はアメリカで条約改正交渉を行ったが、日本側の要求は受け入れられなかったこと、その後1876年(明治9年)から寺島宗則がアメリカとの間で関税自主権回復交渉を行ったが、英国などの反対により実施に至らなかったことを読み上げた
- Gさん: 1871年(明治4年)に日清修好条規が締結され、両国が相互に権利を認め合う対等な条約であり、批准書の交換は1873年(明治6年)に行われたと読み上げた
- Fさん: 朝鮮との国交交渉が難航し、征韓論が高まったが、岩倉具視・大久保利通らが内政整備を優先すべきとして反対し、西郷隆盛らが下野する「明治六年の政変」が起きたと読み上げた
- Cさん: 1875年(明治8年)に軍艦雲揚を派遣して江華島事件を引き起こし、翌1876年(明治9年)に日朝修好条規を締結して朝鮮を開国させたと読み上げた
- Gさん: 江華島事件とは何かと質問した
- のぶた先生: ソウル近郊の江華島付近での雲揚の行動を、朝鮮側の砲撃を誘う挑発と捉え、日本側の上陸・攻撃を経て条約締結に持ち込んだ事件であると地図を示しながら説明した。ペリーの黒船来航との類似も指摘した
・結論
- 岩倉使節団は条約改正に失敗したが、欧米の政治・産業を視察する成果を上げた
- 日本軍の示威行動から武力衝突が起こり、翌年の日朝修好条規締結につながった。挑発の具体的意図については、授業で示された講師の見解として整理した
- 日朝修好条規は朝鮮を自主の国として日本との平等を掲げたが、日本側の領事裁判権などを認める不平等な内容も含んでいた。自主を規定した条項には、清の宗主権を排する意味があった
「条規」と「条約」の使い分け
うえまつ先生の問題提起をきっかけに、日清修好条規・日朝修好条規における「条規」という名称の意味について議論した。
・詳細
- うえまつ先生: 日米和親条約などは「条約」と呼ばれるのに、日清・日朝は「条規」と呼ばれる理由が分からないと問題提起した。世界史の観点から受験生にとって混乱の原因になると指摘した
- のぶた先生: 「条規」の方が格下・小さいイメージがあるかと問い返した
- うえまつ先生: アジア歴史資料センターで確認したところ、原文にも「修好條規」と記されており、「条規」は後世の呼び名ではなく当時使われた名称であると説明した
- のぶた先生: 日本側が望んだ表現か、相手国が望んだ表現かという観点も提示した
- Cさん: 調査の結果として、「条規」という名称は中国・朝鮮の慣習に由来するという説明を紹介した
・結論
- 「条規」は当時から用いられていた名称である
- その呼称が選ばれた経緯や、紹介された説の出典については引き続き確認が必要
1875年の初等教育就学率
うえまつ先生が補足情報として共有した。
・詳細
- うえまつ先生: 参照した資料によれば、1875年時点の初等教育就学率は男子50.49%、女子18.58%であったと紹介した
- のぶた先生: 学制施行からわずか3年でこれほど高い就学率になっていることに驚きを示した
・結論
- 授業では、学制施行からわずか3年で男子の就学率が約50%に達していた点に注目した
画像:岩倉使節団(1872年)/Wikimedia Commons(Public Domain)



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