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学問吟味について【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 学問吟味の作文の「記事題」「対訳史論」って何? まず、国史大辞典の「学問吟味」の項に「作文は記事題と対訳史論と復文を課した(寛政六年時、『昌平志』による)」とあります。 『昌平志』を確認すると、確かに下の写真のようにありました。 『昌平志』第ニ巻(国立公文書館デジタルアーカイブ) よく見ると、「記事題」ではなくて「紀事題」ですね。 「紀事」とは「一事件ごとにその首尾、本末をまとめ記すもの」 「記事」とは「正史に対する私史をいう。」(日本国語大辞典) ChatGPTに考えさせたところ、「作文内でも少なくとも性格の違う課題があり、記事=史実の叙述(“史書の一条を書く”イメージ)論=人物や事件について論じる(評価・解釈を立てる)といった役割分担があった。」とまとめてくれました。「紀事題(記事題)」は、基本的にこれでいいと思
順大 古川
2025年12月23日読了時間: 2分


江戸時代の年貢の金納について【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 鶴岡八幡宮のシステムは? 「祭祀を司ったのは真言宗系の僧侶(供僧(ぐそう))たちで、のちに二十五名が任じている。供僧の長にあたる鶴岡一山の最高責任者を別当(社務職)といい、初代の別当は園城寺の円暁(頼朝と従兄弟)であった。一方、神式の行事を司祭する神主の職も建久二年十二月におかれ、初代神主は大伴清元で、以来、大伴家は明治維新に至るまで神主職を継承した。ちなみに、別当・供僧・神主を除いた八幡宮の職員構成は、小別当一人、御殿司二人、小宮神主、巫女八人、職掌(神人)八人、承司二人などであった。」(国史大辞典) 「「鶴岡八幡宮寺」とも称されているように、神仏習合の典型である宮寺形式の神社であり、神主に大伴 (おおとも) 氏が補せられていたものの、社内の権限は僧侶 (そうりょ) が握っていた。」(日本大百科全書)...
順大 古川
2025年12月22日読了時間: 2分


江戸時代の年貢の金納について【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 大石学監修『図解でスッと頭に入る江戸時代』(https://amzn.to/4qiqHQa に、「夏は金納、秋・冬は金納か米納となる」と書かれていました。江戸時代の農民が年貢を金納していたことについて調べたい 以下のように、18世紀後半になると、小物成などの雑税を中心に金納(「石代納(こくだいのう))化が進んでいたようです。 参考サイト:- 税務大学校(国税庁)「年貢の時代」特別展示ページ この年(安永4年(1775))に、蕪町村(かぶつちょうむら・群馬県桐生市)が納めた年貢は、「永21貫556文5分」と、すべて金納でした。 検地帳で蕪町村の村高をみると、寛文年間(1661~73)は85石あまりで、畑の多い村でした。 江戸時代、本年頁は米で納めることが原則でした。しかし、蕪町村のように畑が多い地域では、米ではなく
順大 古川
2025年12月19日読了時間: 2分


防穀令事件の朝鮮側の主張と日本側の主張【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 防穀令事件の朝鮮側の主張と日本側の主張は? 回答: まず、国史大辞典で防穀令事件を確認しておきます。 日朝修好条規締結(明治九年(一八七六))後とみに盛んになった日本商人による穀物(米・大豆)の対日輸出を、朝鮮側が阻止しようとしたことから発生した日朝間の紛争事件。防穀とは元来、李朝時代、朝鮮で地方官が、自己の行政管轄内で凶作・兵乱などによる穀価の騰貴を防止するため、穀物売買・運搬の禁止、購入穀物の差し押えなどを行うことをいう。日本との貿易開始後、余剰農産物でもない米・大豆の日本商人による日本への大量輸出が始まり、穀価が騰貴し、防穀は朝鮮の支配層にとって欠くべからざる政策となった。したがって、明治十六年七月に調印された「朝鮮国に於て日本人民貿易の規則」第三十七款では、朝鮮の地方官が一ヵ月前に日本領事官に予告して防穀を行うことができるのを認めていた。防穀令は、一八八四年から一九〇一年の間に
順大 古川
2025年8月20日読了時間: 4分


北里研究所【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 北里柴三郎が北里研究所を作れた資金源はなに? 回答: 北里研究所を設立する以前に、北里柴三郎は福沢諭吉などから資金調達して伝染病研究所を設立したり、国費で留学したりしています。また、先祖代々の資産家というわけでもありません。 ところが、伝染病研究所を去った北里が私立北里研究所を設立するときは、「研究所設立の資金三十余万円」(『北里柴三郎伝』)を「私財」(『北里柴三郎伝』)でまかなっています。これは、今の感覚でいうと数十億円に相当し、北里柴三郎の給与だけでは到底まかなえない金額です。 『北里柴三郎』や「三田評論オンライン」によると、この資金は、伝染病研究所の資金調達のために開設した土筆ケ岡養生園(つくしがおかようじょうえん)という結核専門病院の儲けの蓄積だそうです。土筆ケ岡養生園は福沢諭吉のアドバイスに基づいて、福沢諭吉が
順大 古川
2025年8月14日読了時間: 2分


戦後の配給【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 戦後の配給はいつまでやっていたの? 回答: 国史大辞典によると、「需給関係の緩和とともに、乳製品・鳥肉・茶・錫などから統制廃止が始まり、二十四年にドッジ=ラインが実行されるなかで、急速に統制廃止が進んだ。戦後の衣料切符制(二十二年十月実施)も、人絹製品は二十四年に、その他製品については二十五年九月に実質的に廃止された。二十七年四月一日に臨時物資需給調整法は廃止され、主食のみが配給制の対象に残った。」とあります。配給ではありませんが、衣料品の切符制は1950年まで続いたわけです。 昭和館のサイトによると、酒類への統制は1949年5月に解除されて、同年7月に酒類配給公団が廃止されたそうです。 たばこと塩の博物館のサイトによると、「昭和25年(1950)には、たばこの割当配給制度も廃止され」たそうです。 先に国史大辞典に「二十
順大 古川
2025年8月11日読了時間: 2分


井上馨の正式交渉会議はどこで開かれたのか?【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 井上馨の正式交渉会議はどこで開かれたのか? 回答: 外務省のサイトに、全27回の正式交渉会議の議事録がありました。 それによると、「東京外務省に於て集会す」と、外務省で開かれたことがわかります。 会場については、第一回会議の議事録にしか明言はされていないのですが、第二回~第二十七回の議事録に会場を変えた話はでてこないし、状況を鑑みても、全部外務省と考えていいでしょう。 なお、予備会議も外務省で開かれています(同じページでこちらも議事録が公開されています)。 外務省の場所は、火事やらで一時的に仮庁舎に移っていた時期とかもありますが、基本的には霞ヶ関 2-2-1です。江戸時代には黒田藩邸があった場所ですね。 外務省は日比谷公園の西側のエリアにあって、日比谷公園をはさんだ東側に鹿鳴館がありました。 参考文献:外務省記録局『外務省沿革略誌』(明治22年)
順大 古川
2025年8月9日読了時間: 1分


大友氏と大村氏【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 戦国・安土桃山時代の大友氏と大村氏と有馬氏の同盟関係。 回答: まず可能な限り雑に北部九州の戦国大名の盛衰をみておくと。 大内義隆が陶晴賢に敗れる(厳島の戦い・1555年) →大内氏の勢力が後退して大友氏の勢力が強くなる →大友宗麟が島津に負ける(耳川の戦い・1578年) →龍造寺隆信の勢力が強くなる →龍造寺隆信が島津に負ける(沖田畷の戦い・1584年) →大友が少し復活して島津が強くなるけど、豊臣秀吉が入ってきて九州勢力は一掃される ってな感じです。 大友宗麟は九州のトップ争いに絡んでくる九州ティア1大名ですが、有馬はティア2で、大村はティア3の大名となります。 断片的になりますが、 大村純忠は有馬氏からの養子で、有馬晴信の叔父にあたります。有馬氏と大村氏は密接な同盟関係にありました。大村氏のほうが格下です。また、大友と大内が争っていたころは、有馬氏は大友側につくことが多かったよう
順大 古川
2025年8月6日読了時間: 2分


江戸時代の蘭書【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 江戸時代に日本に入ってきた西洋の書物を教えて。特に吉宗以前のもの。 回答: 文部科学省教科書調査官の高橋秀樹氏によると、「幕府がオランダ語の書籍輸入を一度も禁じていない」とのことです。 国立国会図書館の江戸時代の日蘭交流の記事によると、 ①「万治2年(1659)にドドネウスの『草木誌』、寛文3年(1663)にヨンストンの『動物図説』が商館長から献上されていたが、解読できる者もおらず、空しく幕府の文庫に眠っていた。」 ②ターヘル・アナトミア(そういえば、この本は現在オランダ語以外(ドイツ語とかラテン語だった記憶が、、、)のものも日本に残っているのですが、いつごろ入ってきたのかは忘れました) ③ハルマの蘭仏辞典 ④ドゥーフの『ヅーフハルマ』(←たしか適塾かどこかで福沢諭吉たちが学んだ本だった記憶が、、、) ⑤ショメール『日用百科事典』 などが入ってきていたそうです。 同じサイトに、「国立国
順大 古川
2025年7月30日読了時間: 2分


天皇の御璽の材質【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 天皇の御璽の材質は? 回答: 日本大百科全書によると、明治4年以降は金印で、大きさは方9.09センチメートル(3寸)、重さ3.55キログラムとのことです。それ以前は銅と錫の合金を使ってました。 なお、印鑑ネット通販専門店シェアNo.1の「ハンコヤドットコム」のサイトによると、天皇御璽は強度を保つために18金で製作されているようです。 「ハンコヤドットコム」御璽について
順大 古川
2025年7月29日読了時間: 1分


関ヶ原の戦いの毛利秀元たち【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 関ヶ原の戦いで南宮山あたりにいた西軍の毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家は東軍を攻撃しなかったのですか? 回答: 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大阪の陣』(吉川弘文館・2007年)によると、 毛利隊の先鋒武将の吉川広家と福原広俊が、家康に内通して毛利隊の出撃を抑え込んでいた。そのため、「南宮山の毛利隊はついに参戦の機会をうしなった。長宗我部、安国寺、長束の諸隊もまた、これに引きずられる形で、空しく戦いを傍観するのみであった。西軍の敗北が明らかとなるや、長宗我部、長束隊は伊勢方面に走り、毛利隊は近江に向かって退」きました。 というわけで、まーったく攻撃してねえ、です。そして、その鍵は吉川広家と福原広俊の裏切りにありました。 参考文献: 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大阪の陣』(吉川弘文館・2007年)
順大 古川
2025年7月29日読了時間: 1分


版籍奉還のときに領域に変化があった藩は?【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 版籍奉還のときに領域に変化があった藩は? 回答: 版籍奉還自体は領域の確定や見直しをするような政策ではないので、版籍奉還があった明治2年(1869年)に注目して、領域に変化があった藩をいくつか紹介してみます。 ◇会津藩 23万石ぐらいの大名だったのですが、「明治元年(一八六八)会津藩主松平容保が領地を没収されたのち、二年十二月嗣子容大が斗南三万石を賜わり、三年五月十五日斗南藩知事に任命され」(国史大辞典)ました。 7分の1ぐらいに減っています。 ◇庄内藩 14万石ぐらいの大名だったのですが、「戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として政府軍と戦ったが、明治元年(一八六八)九月降服した。酒井家はいったん滅家したが、同年十二月特旨をもって家名を立てられ、忠篤の弟忠宝に十二万石を与えられ、同月会津若松転封が命ぜられたが中止され、さ
順大 古川
2025年7月26日読了時間: 2分


浜口雄幸暗殺事件【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。 【生徒さん質問】 浜口雄幸を襲撃した犯人は銃をどんなルートから手に入れたの? 回答: 有桓社編『明治・大正・昭和歴史資料全集 暗殺編』(有桓社・昭和8年)(国立公文書館デジタルコレクション)に、昭和5年11月18日の東京朝日新聞の記事が収録されていました。 それによると、浜口雄幸首相を銃撃したのは長崎出身で23歳の男です。 襲撃犯は右翼団体の愛国社に所属していました。 愛国社の社長は岩田愛之助なのですが、襲撃犯はこの岩田愛之助社長からブローニング式八連発の銃を入手していました。 では、愛国社の岩田社長がどこから中を入手したのかというと、「昨年(1929年?※のぶた)八月一日夜別府市外昭和園に於て支那亡命客張宗昌氏に過って射殺された陸軍士官学校出身の秀才、粛親王の第十七子憲開氏が東京に留学中かねて親交を重ねてゐた岩田に記念として贈った品」(
順大 古川
2025年7月26日読了時間: 2分


戦国時代の援軍要請【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 戦国時代の援軍はどのように要請されたのですか?(畠山氏と織田氏の同盟関係が知りたいです) 回答: 姉川の戦いのあと(元亀元年(1570年)8月)に、四国にいた三好三人衆たちが海をわたって、摂津国に陣を構えて東をうかがったときは、将軍足利義昭の命を受けた畠山高政などが防ごうとします。このとき、将軍足利義昭が信長にも連絡を入れて、義昭も信長も出陣しています。 注目されるのは、信長が出陣を免除した徳川家康に対しても、義昭は独自に出陣を要請して入る点です(『織田信長』)。このことは、将軍を媒介とした援軍要請が、この時代の重要な方式の一つだったことを推測させます。 元亀ニ年(1571年)から元亀三年(1572年)にかけて、三好義継や松永久秀は河内の畠山高政を攻撃しました。このとき、元亀三年の4月に、信長は佐久間信盛や柴田勝家らを援軍に向かわせるのですが、その過程はまだ調べられていません。...
順大 古川
2025年7月24日読了時間: 2分


応仁の乱と公家【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 応仁の乱のあとに公家を受け入れた地方の人の事例と、応仁の後に没落した公家と調子がよかった公家を教えて。 回答: >応仁の乱のあとに公家を受け入れた地方の人の事例 例えば、能登守護畠山義統(はたけやまよしむね)は、応仁の乱の後に能登に住むようになりますが、「歌道・連歌に長じ、かつ絵画の趣味もあり、特に和歌では在京中は正徹と交わり、下国後は再三その高弟正広を招いて歌会を催し、能登府中の文芸活動をおこし」(国史大辞典)ました。 公家の冷泉為広は、越後に行くときに越前の朝倉氏のもとに滞在した時の様子を、日記「越後下向日記」に書き記しています。つまり、越前の朝倉氏も越後の上杉氏も冷泉為広を受け入れています。また、冷泉為広は上記の畠山氏と親しくて、能登国にも長く滞在していたようです。 少し時期が下りますが、織田信長の父信秀は、飛鳥井雅綱や山科言継らを招いて蹴鞠や和歌を伝授されて、彼らに報酬を渡して
順大 古川
2025年7月24日読了時間: 2分


大化の改新後の中大兄皇子【歴史部生徒質問・調べてみた】
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。 【生徒さん質問】 大化の改新の後に中大兄皇子はなぜすぐに即位しなかったのですか? 回答: 森公章『東アジアの動乱と倭国』(吉川弘文館・2006年)には、「中大兄は当時二〇歳で、世代と年齢や政治・経済力を基準とする王位継承者選定の原則からは、大王として朝廷の政治を手動する立場ではなかった」ため、退位した皇極天皇(大王)の弟である軽皇子が孝徳天皇(大王)として即位したとありました。 吉川真司『飛鳥の都』(岩波新書・2011年)は、『日本書紀』に記されている中大兄皇子があえて即位を遠慮したという話は信じがたいとして、「軽皇子はもともと皇位から遠い人物だったが、紅玉の同母弟ということもあり、王族の中でそれなりに重んじられていた。(中略)彼は中大兄よりも年長の王族として、政治的な意志・力量を備えて即位したと考えるべきであろう」とします。 要するに、中大兄皇子は未だ若輩だったということになるようですね。 参考文献:
順大 古川
2025年7月23日読了時間: 1分


宮中・府中(行政府)の別と内閣総理大臣伊藤博文の宮内大臣兼任の矛盾について【歴史部宿題】
【生徒さん質問】: 質問: 『もういちど読みとおす 山川新日本史 下』59-60pに、「従来から宮内省(宮内卿)は行政府と別であったが、宮内省(宮内大臣)を内閣の外において、宮中と行政府の別を明確にした」とあるが、「伊藤は、みずから初代の総理大臣になるとともに宮内大臣も兼任した」のはなぜか。宮中(宮内省)行政府(内閣総理大臣)の別が明確になってないのではないか。 回答: 茶谷誠一『宮中からみる日本近代史』(筑摩書房・2016年)を読んで、まとめてみました。私の読解などに誤解などがあれば、ご指摘・ご助言をいただけるとありがたいです。 1882年に欧州に憲法視察に出かけてシュタインなどから立憲政体論を学んだ伊藤博文は、天皇の君権を制限する立憲君主制の確立を目指しました。立憲君主制のもとでは、天皇が好き勝手に政治をするのではなく、天皇はただ行政府と立法府の調整役を担うことが期待されていました。 そのために必要だったものの一つが憲法の制定であり、天皇と宮中を憲法体制のもとでシステム化することでした。 今回の文脈で表現すれば、「宮中・府中(行政府)の別」と
順大 古川
2025年6月15日読了時間: 3分


良源(慈恵大師/元三大師)の「教学の奨励」と「論議」と、ついでに「比叡山中興の祖」【歴史部宿題】
【生徒さん質問】:『もう一度読みとおす山川新日本史』上巻、79pに、「良源は、摂関家と密接な関係をもち、比叡山中興の祖とも称され、教学も奨励した」とあるが、「教学の奨励」とは具体的にどのようなことをしたのか? と、「論議」ってなに? 回答: 参考文献は、平林盛得『良源』(吉川弘文館・1976年)です。 ◆教学と良源 まず、「教学」とは「ある特定の宗派の教理に関する学問」(国史大辞典)です。 良源が属する比叡山延暦寺は天台宗なので、今回の場合の教理とは「天台宗の教え」ということですね。 最澄は、弟子の修学コースを2つ設けました。一つが顕教の止観業で、もう一つが密教の遮那業です。 止観業では、法華経・金光明経・仁王経などを学びます。 遮那業では、遮那経・孔雀経・不空経・仏頂経などを学びます。 これらの「業」=「教学」で、同時に「業を修める修行・学習」=「教学」という用法もあるようです。テキストのは後者の用法ですね。 テキストにあった、良源が「教学も奨励した」とは、良源が比叡山の僧たちに天台宗の教えをよく学ぶように奨励したということです。...
順大 古川
2025年5月23日読了時間: 5分


1710年の宝永小判ってどんなの?【歴史部宿題】
【生徒さん質問】:『もう一度読みとおす山川新日本史』上巻、184pに、「(※5代将軍綱吉のときに)勘定方の荻原重秀を中心にして収入を増加させる策をとり、慶長金銀を金銀の量を減らした質の悪い元禄金銀に鋳造し直す貨幣改鋳がおこなわれた。……(中略)……(※7代将軍家継のときに、新井白石が)貨幣価値が下がった元禄金銀を慶長金銀の品位にまで戻した正徳金銀を鋳造した」とあるが、同じ184pの上の表には、元禄金銀と正徳金銀の間に「宝永小判」ってのがあるじゃないか。これはなんだ!? あ、金銀と小判は、今は同じもんだと考えておいていいです。 回答: ①5代将軍綱吉のとき、荻原重秀が慶長金銀よりも金の含有率が低い、すなわち質を落とした元禄金銀を発行しました。 これは悪い(と幕府が考えていた)インフレを引き起こしました。 ②1709年に綱吉が没して、家宣が6代将軍となります。 家宣は新井白石を登用します。ただし、荻原重秀は続投です。 ③インフレ対策として、1710年4月に荻原重秀が”慶長金銀と同じ金含有率で額面が同じ”宝永小判を発行しました。ただし、小判自体の大き
順大 古川
2025年5月10日読了時間: 2分


江戸時代前期の銅の輸出について【歴史部宿題】
『新長崎市史 第二巻近世編』(長崎市、平成26年3月)の記事によると、以下のようです。 1636年(寛永13年):寛永通宝を鋳造するための材料を確保するために、銅の輸出を禁止。 1646年(正保3年):オランダ商館から銅輸入の要望があり、寛永通宝の鋳造も順調だったので、銅の輸出を解禁。 1668年(寛文8年):これまでに話していた銀輸出禁止のときに、銅の輸出も禁止。外国への支払いは金で行うことに。 1669年(寛文9年):外国からの要望により、銅の輸出を解禁。 ↓(この間、どのぐらいの銅が輸出されていたのかは、分かりませんでした) 1691年(元禄4年):四国の別子銅山を掘り当てた大坂の銅屋泉屋(住友)が、産銅を開始。4年後には年間生産量が100万斤を突破。 1694年頃より、銅による支払いが盛んになる(銅代物替(どうしろものがえ))。 1715年:新井白石の正徳新例で、清の商人に対しては年間に銀6000貫(その内銅300万斤分は銅で支払う)、オランダ商人に対しては年間に銀3000貫(分の金)(その内銅50万斤分は銅で支払う)となりました。..
順大 古川
2025年5月10日読了時間: 3分
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