1710年の宝永小判ってどんなの?【歴史部宿題】
- 順大 古川
- 5 日前
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【生徒さん質問】:『もう一度読みとおす山川新日本史』上巻、184pに、「(※5代将軍綱吉のときに)勘定方の荻原重秀を中心にして収入を増加させる策をとり、慶長金銀を金銀の量を減らした質の悪い元禄金銀に鋳造し直す貨幣改鋳がおこなわれた。……(中略)……(※7代将軍家継のときに、新井白石が)貨幣価値が下がった元禄金銀を慶長金銀の品位にまで戻した正徳金銀を鋳造した」とあるが、同じ184pの上の表には、元禄金銀と正徳金銀の間に「宝永小判」ってのがあるじゃないか。これはなんだ!?
あ、金銀と小判は、今は同じもんだと考えておいていいです。
回答:
①5代将軍綱吉のとき、荻原重秀が慶長金銀よりも金の含有率が低い、すなわち質を落とした元禄金銀を発行しました。
これは悪い(と幕府が考えていた)インフレを引き起こしました。
②1709年に綱吉が没して、家宣が6代将軍となります。
家宣は新井白石を登用します。ただし、荻原重秀は続投です。
③インフレ対策として、1710年4月に荻原重秀が”慶長金銀と同じ金含有率で額面が同じ”宝永小判を発行しました。ただし、小判自体の大きさが小さくなっているステルス改鋳なので、慶長小判と金の含有率が同じという触れ込みであっても、1両の小判に含まれている金の量は、慶長小判よりもはるかに金が少ない元禄小判よりもさらに少ないというシロモノでした。バカにしてますね。
世の商売人たちは、そんな姑息なものにはだまされませんので、インフレは収まりません。
なお、新井白石は宝永小判の発行に大反対していました。
④家宣が病気に伏せた1712年、荻原重秀はクビになります。そして、間もなく家宣も没して、7代将軍家継が将軍となります。
⑤というわけで、荻原重秀を追い出して経済政策も主導できるようになった新井白石は、金の含有率も重さも慶長金銀と同じ正徳金銀を発行したというわけです。
貨幣の流通量が激減したので、貨幣の価値は上がります。これはモノの価値が下がる、すなわちデフレを導きます。デフレは不況の一大要因です。経済政策って難しいですね。
参考文献:
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