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江戸時代前期の銅の輸出について【歴史部宿題】



『新長崎市史 第二巻近世編』(長崎市、平成26年3月)の記事によると、以下のようです。


1636年(寛永13年):寛永通宝を鋳造するための材料を確保するために、銅の輸出を禁止

1646年(正保3年):オランダ商館から銅輸入の要望があり、寛永通宝の鋳造も順調だったので、銅の輸出を解禁

1668年(寛文8年):これまでに話していた銀輸出禁止のときに、銅の輸出も禁止。外国への支払いは金で行うことに。

1669年(寛文9年):外国からの要望により、銅の輸出を解禁

 ↓(この間、どのぐらいの銅が輸出されていたのかは、分かりませんでした)

1691年(元禄4年):四国の別子銅を掘り当てた大坂の銅屋泉屋(住友)が、産銅を開始。4年後には年間生産量が100万斤を突破。

1694年頃より、銅による支払いが盛んになる(銅代物替(どうしろものがえ))。

1715年:新井白石の正徳新例で、清の商人に対しては年間に銀6000貫(その内銅300万斤分は銅で支払う)、オランダ商人に対しては年間に銀3000貫(分の金)(その内銅50万斤分は銅で支払う)となりました。


というわけで、オランダの側に銅の需要があったようです。

オランダ側の事情については、下記のサイト・論文①~③を参照してください。

銅の使用法としては、銅銭の鋳造、貿易の資金、武器や鍋・やかんなどの原材料etc あと、オランダ船にとって、日本銅がバラストの役割を果たしていたそうです。


①住友の歴史 | 住友グループ広報委員会(文責:末岡照啓)

「この銅が、中国の銅銭になったり、ベトナムやVOC(オランダ東インド会社)の貨幣になったり、というふうに重要な産品でした。」


②松井洋子「江戸時代の日本とオランダ」

「金・銀に代わって主たる輸出品になったのが銅でした。銅は南アジアに運ばれ、綿織物の仕入れの資金になりました。銅は、武器から鍋ややかんまで、あらゆる用途に用いられますが、インドでの主な用途は、小額貨幣である銅貨の鋳造でした。会社の日本貿易による利益の多くは、日本へ輸入する商品の販売によるものではなく、この銅の転売によるものでした。」


③坪井利一郎「江戸のオランダ人」

「日本銅は、出島貿易の決済品の主要品であったと同時に、オランダ船にとっては船の安全を確保するための底荷(バラスト)としても重要な品物であった。」



【以下、江戸時代の対オランダ関係年表メモ】


1641年~1664年は、金の輸出禁止。1664年に許可。

1668年に輸出入の品目制限。オランダは銀輸出禁止。ただし、中国戦に対しては銀輸出継続

1685年、オランダ船との貿易額を、銀3000貫目相当の金5万両に制限。(定高仕法?)

1715年、海舶互市新例

1743年、オランダとの貿易額を銀550貫目、銅50万斤(1斤≒616グラム)に半減

1790年、船は年2隻に半減。銅の輸出量は60万斤が上限に。この後、細かい増減はあるが基本は60万斤。

 

なお、1695年以降の度重なる貨幣改鋳で金の品位が下がったため、金の輸出は1762年に停止した。


④17世紀中頃:生糸輸入高は年20万斤前後。オランダに支払った生糸代は、年平均約5000貫の銀。銅の輸出量に制限が設けられたのは海舶互市新例が初めて。18世紀には銅を輸出して、インド産の絹を輸入するのがメインになる。

清の場合:1661年で、銀輸出25000貫。

     1685年、貿易額を年銀6000貫に制限(定高仕法?)→密貿易増加

     1688年、清の来航船を年70隻に制限。翌年、唐人屋敷設置。



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