定高仕法の矛盾?【歴史部宿題】
- 順大 古川
- 5 日前
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【生徒さん質問】:『もう一度読みとおす山川新日本史』上巻、178pに「1668(寛文8)年に銀輸出を禁止して銅と海産物を中心にするとともに、1685(貞亨2)年、貿易額をオランダは銀3000貫、中国は銀6000貫に制限し」とあるが、禁止したはずなのに制限するといはどういうことなのか?
【調べてみた】
1668年に、銀輸出は禁止されました。銀輸出とは、言い方を変えれば、外国のものを買うときに銀貨で支払うということです。
このとき銀(と、実は銅も)の輸出は禁止して、金を輸出することにしました。言い方を変えれば、金貨で支払うようにしたということです。
その後、オランダには銀は輸出されず、金が輸出されました。銀貨でなく金貨で支払うようになったということですよ。
じゃあ、なぜ1685年に銀3000貫に制限ということになるのか。それは、金貨で支払っているにもかかわらず、銀価格に換算して記録していたからでした。分かりますが?1685年のオランダ相手の命令は、「銀貨で言うなら3000貫分の金貨まで支払っていい」という意味だったのです。
では、清はどうか。
1668年に銀貨で支払うことを禁止したところまでは、オランダ相手と同じです。
しかし、ここからが笑うところです。
清では金の価値が低いので、清国商人は金での取引を渋りました。
そこで、幕府は、翌1669年に清商人相手なら「銀の道具なら輸出していいよ」という命令を出しました(笑)。
想像してください。日本人に物を売ったら、山盛りの銀食器を渡されて困惑している中国人の姿を(笑)。

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まあ、いろいろとムリがある方式なので、最初は銀輸出額は10分の1ぐらいまで下がるのですが、清商人相手の規制は次第に緩められていって、1685年ぐらいには、年間6000貫ぐらいの銀を輸出するようになっていました。
そのときに出されたのが、1685年の定高仕法だったということでした。
なお、1685年ごろは、オランダ相手には銀300貫ぐらいの金が輸出されていたので、1685年の命令は現状を維持して、これ以上の輸出は禁止するという措置だったと考えられます。
参考文献:『新長崎市史 第二巻近世編』(長崎市、平成26年3月)
【以下、江戸時代の対オランダ関係年表メモ】
オランダは明から直接貿易を禁止されたので、オランダも明とは出会い貿易。もしくは、台湾で仕入れた。
1641年~1664年は、金の輸出禁止。1664年に許可。
1668年に輸出入の品目制限。オランダは銀輸出禁止。ただし、中国戦に対しては銀輸出継続。←このあとの実態などについては、引き続き調査中です。
1685年、オランダ船との貿易額を、銀3000貫目相当の金5万両に制限。(定高仕法?)
1715年、海舶互市新例
1743年、オランダとの貿易額を銀550貫目、銅50万斤(1斤≒616グラム)に半減
1790年、船は年2隻に半減。銅の輸出量は60万斤が上限に。この後、細かい増減はあるが基本は60万斤。
なお、1695年以降の度重なる貨幣改鋳で金の品位が下がったため、金の輸出は1762年に停止した。
④17世紀中頃:生糸輸入高は年20万斤前後。オランダに支払った生糸代は、年平均約5000貫の銀。銅の輸出量に制限が設けられたのは海舶互市新例が初めて。18世紀には銅を輸出して、インド産の絹を輸入するのがメインになる。
清の場合:1661年で、銀輸出25000貫。
1685年、貿易額を年銀6000貫に制限(定高仕法?)→密貿易増加
1688年、清の来航船を年70隻に制限。翌年、唐人屋敷設置。
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