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宮中・府中(行政府)の別と内閣総理大臣伊藤博文の宮内大臣兼任の矛盾について【歴史部宿題】

【生徒さん質問】

質問:

『もういちど読みとおす 山川新日本史 下』59-60pに、「従来から宮内省(宮内卿)は行政府と別であったが、宮内省(宮内大臣)を内閣の外において、宮中と行政府の別を明確にした」とあるが、「伊藤は、みずから初代の総理大臣になるとともに宮内大臣も兼任した」のはなぜか。宮中(宮内省)行政府(内閣総理大臣)の別が明確になってないのではないか。


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回答:

茶谷誠一『宮中からみる日本近代史』(筑摩書房・2016年)を読んで、まとめてみました。私の読解などに誤解などがあれば、ご指摘・ご助言をいただけるとありがたいです。


1882年に欧州に憲法視察に出かけてシュタインなどから立憲政体論を学んだ伊藤博文は、天皇の君権を制限する立憲君主制の確立を目指しました。立憲君主制のもとでは、天皇が好き勝手に政治をするのではなく、天皇はただ行政府と立法府の調整役を担うことが期待されていました。

そのために必要だったものの一つが憲法の制定であり、天皇と宮中を憲法体制のもとでシステム化することでした。

今回の文脈で表現すれば、「宮中・府中(行政府)の別」という制度(法律)を作り上げるということです。


ところが、伊藤に対抗する勢力も存在しました。その勢力とは、天皇親政を目指す天皇の側近たち、すなわち元田永孚たちの旧侍輔勢力です。侍輔の制度自体は1979年に伊藤博文と岩倉具視によって廃止されていたのですが、明治天皇の個人的な要請により、依然として旧侍輔勢力は力を保っていたのです。

旧侍輔勢力が望んでいたことは、天皇とその側近が政治の意思決定に強く関わること、いいかえると宮中が行政府に強く介入することだと言えます。宮中の政治介入を許してしまうと、立憲君主制が揺らいでしまいますよね。


宮中を行政から分離するためには、旧侍輔勢力の台頭を防ぐ必要があります。そのためには強力な改革が求められます。そこで伊藤博文は、行政府の参議でありながらも自ら宮中の宮内卿に就任しました。次に行政府が太政官制から内閣制に移行すると、行政府の内閣総理大臣と宮内大臣を兼任しました。

兼任の理由は、伊藤自らが宮中の内部に入り込んで、宮中改革を遂行して宮中と府中(行政府)が別であることを制度面から明確にするためです。


強い力で宮中の内部から宮中改革を行う必要があるという理屈は分かります。ただし、伊藤博文が行政府と宮中の両職に就いている限り、宮中と行政府を分離できないのではないかという懸念はもっともで、宮中の改革が一段落つくと、伊藤は憲法が制定される前に宮内大臣を辞職しました。

こうして「宮中・府中(行政府/内閣)の別」という原則が制度として確立されました。


このように「宮中・府中(行政府/内閣)の別」という制度的枠組みは設けられましたが、そこは人の世の中のこと、宮内大臣辞任後の伊藤博文も、のちの山県有朋も宮中への影響力は強く持っていました。また、宮中にあって宮内省の下局にあたる内大臣府の内大臣も、政治に関与していなかったとは言えません。


以上が、参考文献を読んだ私の理解です。

一応ですが、原則や建前と実態が一致しないからといって、原則や建前に意味がないということはありません。原則や建前は一定のストッパーとして機能しますから。原則や建前がストッパーとして機能した例としては、第一次護憲運動があげられると思います。

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