戦国時代の援軍要請【歴史部生徒質問・調べてみた】
- 順大 古川
- 7月24日
- 読了時間: 2分
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。
【生徒さん質問】
戦国時代の援軍はどのように要請されたのですか?(畠山氏と織田氏の同盟関係が知りたいです)
回答:
姉川の戦いのあと(元亀元年(1570年)8月)に、四国にいた三好三人衆たちが海をわたって、摂津国に陣を構えて東をうかがったときは、将軍足利義昭の命を受けた畠山高政などが防ごうとします。このとき、将軍足利義昭が信長にも連絡を入れて、義昭も信長も出陣しています。
注目されるのは、信長が出陣を免除した徳川家康に対しても、義昭は独自に出陣を要請して入る点です(『織田信長』)。このことは、将軍を媒介とした援軍要請が、この時代の重要な方式の一つだったことを推測させます。
元亀ニ年(1571年)から元亀三年(1572年)にかけて、三好義継や松永久秀は河内の畠山高政を攻撃しました。このとき、元亀三年の4月に、信長は佐久間信盛や柴田勝家らを援軍に向かわせるのですが、その過程はまだ調べられていません。
天正五年(1577年)閏7月に上杉謙信が能登の七尾城に攻め込んできたときに、信長が柴田勝家を総大将として滝川一益・豊臣秀吉・丹羽長秀らを救援に向かわせた話が一番有名だと思います。
このとき、能登守護畠山氏は有名無実の存在ともいえる状況で、七尾城の実権は遊佐氏・長氏などに握られていました。その長氏の長綱連は信長の救援を請うために、弟の孝恩寺宗顓(後の長連龍)を使者として密かに安土に派遣しました。宗顓は乞食姿に変装して信長のところまでやってきたそうです。
三好義継や松永久秀が畠山昭高の武将を攻めたときに、織田信長は救援を送るのですが、その過程についてはまだ調べられていません。
参考文献:
小和田哲男『詳説図解 信長記』
など:




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