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応仁の乱と公家【歴史部生徒質問・調べてみた】

個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。


【生徒さん質問】

応仁の乱のあとに公家を受け入れた地方の人の事例と、応仁の後に没落した公家と調子がよかった公家を教えて。


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回答:

>応仁の乱のあとに公家を受け入れた地方の人の事例

例えば、能登守護畠山義統(はたけやまよしむね)は、応仁の乱の後に能登に住むようになりますが、「歌道・連歌に長じ、かつ絵画の趣味もあり、特に和歌では在京中は正徹と交わり、下国後は再三その高弟正広を招いて歌会を催し、能登府中の文芸活動をおこし」(国史大辞典)ました。

公家の冷泉為広は、越後に行くときに越前の朝倉氏のもとに滞在した時の様子を、日記「越後下向日記」に書き記しています。つまり、越前の朝倉氏も越後の上杉氏も冷泉為広を受け入れています。また、冷泉為広は上記の畠山氏と親しくて、能登国にも長く滞在していたようです。


少し時期が下りますが、織田信長の父信秀は、飛鳥井雅綱や山科言継らを招いて蹴鞠や和歌を伝授されて、彼らに報酬を渡していました。(河内祥輔・新田一郎『天皇と中世の武家』(講談社・2018年)


まあ、一番の有名な事例は、たくさんの公家を受け入れて山口を発展させた大内氏ですね。


>応仁の後に没落した公家と調子がよかった公家

内蔵頭を世襲して天皇の衣服を調達する山科家は、応仁の乱の頃になると朝廷からの定期的な収入が入ってこなくなりました。そこで山科言継(やましなときつぐ)は、天皇だけでなく様々な人々の依頼を探して生計を立てるようになりました。 (河内祥輔・新田一郎『天皇と中世の武家』(講談社・2018年)


調子がよかったとまで言えるかどうかは微妙ですが、摂関家の一条兼香などは、奈良に下っても贅沢な暮らしを続けることができました(呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書・2016年))。全体的にみても、上級貴族は地方に下ってもまもなく京都に戻ってきているので、下級貴族ほどは没落していないようです(河内祥輔・新田一郎『天皇と中世の武家』(講談社・2018年)。



参考文献:


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