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良源(慈恵大師/元三大師)の「教学の奨励」と「論議」と、ついでに「比叡山中興の祖」【歴史部宿題】

【生徒さん質問】『もう一度読みとおす山川新日本史』上巻、79pに、「良源は、摂関家と密接な関係をもち、比叡山中興の祖とも称され、教学も奨励した」とあるが、「教学の奨励」とは具体的にどのようなことをしたのか? と、「論議」ってなに?



回答:


◆教学と良源

まず、「教学」とは「ある特定の宗派の教理に関する学問」(国史大辞典)です。

良源が属する比叡山延暦寺は天台宗なので、今回の場合の教理とは「天台宗の教え」ということですね。

最澄は、弟子の修学コースを2つ設けました。一つが顕教の止観業で、もう一つが密教の遮那業です。

止観業では、法華経・金光明経・仁王経などを学びます。

遮那業では、遮那経・孔雀経・不空経・仏頂経などを学びます。

これらの「業」=「教学」で、同時に「業を修める修行・学習」=「教学」という用法もあるようです。テキストのは後者の用法ですね。


テキストにあった、良源が「教学も奨励した」とは、良源が比叡山の僧たちに天台宗の教えをよく学ぶように奨励したということです。

私は、歴史部のときに「天台宗が密教化していたから、密教から顕教の教えに立ち返るように奨励したのでは」と推測しましたが、いつものパターンで、少し違いました。

確かに、密教化が進んでいた当時の延暦寺では、遮那業が隆盛していました。

さて、この話はいったん中断して、次の論議の話のあとにもう一度触れなおすことになります。



◆論議と良源

「論議」とは、経論の意味などにつき問答を行うもので、天皇の御前で行うもののほか、勅使の前で行うものや、私的に行うものがありました。

例えば、維摩会の論議では「与えられた論題に対して自分の意見を述べることで、その意見の当否によって僧侶の学力が計られる。出題者が探題(たんだい)、回答者が堅者(りっしゃ)、回答に対して意見を述べるのが講師」(参考文献)といった様子です。こうした公的な論議の場合は、堅者の論述テストのような様子になります。ただし、私的なものになると、かなり場外乱闘的に宗派対宗派の赤裸々な争論の場になったようです。


なお、「論議」は「宗論」とか「問答」とも呼ばれることがあります。みなさん的には、織田信長の「安土宗論」なんかは聞いたことがあるかもしれませんね。安土宗論は私的な論議なんです(信長をその勢力圏内における公的権力と考えるならば、公的な性質を強く持つともいえますが)。


実は、良源は若いときから論議の延暦寺代表選手として大抜擢されて、公的な論議でも私的な論議でも、大勝利を積み重ねてきた人でした。



◆良源の「教学の奨励」

良源は55歳というぶっちぎりの若さで、比叡山延暦寺……というかある意味日本仏教界のトップである天台座主に就任します。それまでの天台座主は円珍とかを除けばみんな60代後半から70代での就任なので、ほんとに良源は若いです。

天台座主となった良源は、延暦寺改革案十箇条を天皇に奏上して、そのうちに二箇条が許可されます。

そのうちの一つが、「叡山全体の修学意欲の向上を計」(参考文献)り、「弟子僧の向学心をそそ」(参考文献)るための名誉職の設置です。この名誉職を広学堅義(こうがくりゅうぎ)と言います。広学堅義とは、ぶっちゃけると「論議を極めし者」に与えられる称号です。

超絶名誉である広学堅義となるためには、数多くの大会(論議)で優勝して、天台論議杯(TENDAIRONGIワールドカップ)ともいうべき最澄の命日の法華会の論議に登壇する必要があります。こうして、広学堅義を目指して良源の弟子たちは猛勉強するようになって、延暦寺の教学レベルがアップしたということです。これが、テキストにあった「教学の奨励」だったわけです。


良源は良家の生まれでもないのに、若いころから学問を修め、論議での勝利を積み重ねることによって出世して、実質的には最年少という若さで天台座主に上りつめた人でした。(摂関家とのつながりを作ったという面があるとはいえ、)本質的は、ひたすらひたすらひたすら猛勉強を続けて学問一本で仏教人生に勝利した人間なんです。

そんな良源だからこそ、弟子たちにも学問をがんばってほしかったのだと思いますし、教学によってこそ比叡山や仏教界は興隆するのだという考えをもっていたのでしょう。


最澄の命日の法華会の論議では、当然法華経の奥義についての問答が行われます。つまり、広学堅義となるためには法華経を学びまくらないといけないのです。

ここで、最初の「教学と良源」の話を思い出してください。そう。法華経は顕教の経典です。広学堅義となるためには、顕教の経典を学ぶ止観業という教学を集中して学ばまいといけないのです。逆に言えば、密教系の遮那業は副教科になるということです。このことは、当時密教系の遮那業が隆盛していた延暦寺において、良源の弟子たちは「密教から顕教の教えに立ち返る」ことを意味しますね。


◆ここまでの結論

良源は自らの経験に基づき、学問こそが僧にとっても延暦寺にとっても重要であるという考えで「教学を奨励した」。

良源は顕教の経典をよく学んだものに広学堅義という名誉をあたえることによって、延暦寺僧に密教ではなく顕教をよく学ぶように導いた。

ということになります。


ちなみに、良源が天台座主となったころに比叡山は大火事にみまわれます。この火事からの復活と、ここまで語ってきたような話、そして今回は触れなかった延暦寺の経済基盤の整備などをもって、良源は「比叡山中興の祖」と呼ばれているそうです。



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