版籍奉還のときに領域に変化があった藩は?【歴史部生徒質問・調べてみた】
- 順大 古川
- 7月26日
- 読了時間: 2分
個人レベルで調べて勉強しているので、誤りもあるかと思います。事実誤認や参考文献の読み間違いなどがありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。
継続して勉強していきますので、参考文献や史料などの情報求むです。
【生徒さん質問】
版籍奉還のときに領域に変化があった藩は?
回答:
版籍奉還自体は領域の確定や見直しをするような政策ではないので、版籍奉還があった明治2年(1869年)に注目して、領域に変化があった藩をいくつか紹介してみます。
◇会津藩
23万石ぐらいの大名だったのですが、「明治元年(一八六八)会津藩主松平容保が領地を没収されたのち、二年十二月嗣子容大が斗南三万石を賜わり、三年五月十五日斗南藩知事に任命され」(国史大辞典)ました。
7分の1ぐらいに減っています。
◇庄内藩
14万石ぐらいの大名だったのですが、「戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として政府軍と戦ったが、明治元年(一八六八)九月降服した。酒井家はいったん滅家したが、同年十二月特旨をもって家名を立てられ、忠篤の弟忠宝に十二万石を与えられ、同月会津若松転封が命ぜられたが中止され、さらに同二年六月磐城平転封が命ぜられたが、阻止運動を起し、翌七月七十万両の献金を条件に庄内復帰を許され、同年九月朝命により大泉藩と改称され」(国史大辞典)ました。
カネの力で、わずかな減封ですんだようです。
◇盛岡藩
20万石ぐらいの大名だったのですが、「戊辰戦争のとき、利剛は奥羽越列藩同盟に加わった廉で領地没収の上、隠居差控を命ぜられ、利恭が家名相続を許されて旧仙台藩領白石(しろいし)十三万石に減転され」(国史大辞典)ました。
他の例があれば(あると思いますが、)、ご教示ください。情報求むです。
参考文献:




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