top of page

科学・技術史【誰も得しない日本史】

執筆者の写真: 順大 古川順大 古川

【目次】

・野口英世 さようなら旧千円札記念


野口英世 さようなら旧千円札記念

明治時代には、世界最先端の研究を行う科学者が登場します。なんか見慣れてしまったけれど、こんど千円札が新しくなって、しばらくして久しぶりにもとの千円札を見ると、初めて野口英世の千円札を見たときの、あの気持ちを思い出すのでしょうか。

 

 Are you serious? You smoothed down your messy hair. 

マジで!?寝癖は直してるってのは。


  どの写真見ても、あの角度で、あの髪型だから、あれは勝負アングルで、勝負ヘアーなのでしょう。

 

野口英世は1876年11月9日生まれです。明治でいえば9年。日朝修好条規が結ばれたり、廃刀令が出された年です。11月9日は、消防庁が制定した119番の日。まんまですね。

  野口の生まれは福島県ですが、高等小学校を卒業した後に上京して医師になりました。この辺については、後でもう一回紹介してみたいと思います。この後、あれこれありつつも伝染病研究所に勤めたり、あれこれありつつも、アメリカのロックフェラー医学研究所に入りました。そして、野口をスターダムに押し上げた、「梅毒スピロヘータの純粋培養」という研究成果を出し、黄熱病の研究のために中南米へ向かうことになるのです。

 

In 1918, Noguchi traveled extensively in Central America and South America to develop a vaccine for yellow fever, and to research Oroya fever, poliomyelitis and trachoma.

 1918年、黄熱病のワクチンの開発や、オロヤ熱・ポリオ・トラコーマの調査のために、野口は中央アメリカから、南アメリカにわたりました。(vaccine…ワクチン、yellow fever…黄熱病、Oroya fever…オロヤ熱、poliomyelitis…ポリオ、trachoma…トラコーマ(結膜の伝染症疾患)

 

野口英世の業績は、教科書的には「黄熱病の研究など」と書かれます。昔は前面に出されていた「梅毒スピロヘータの純粋培養」という成果は、現在では、結果的にですが否定されています。なお、受験的には明治の問題で出てくることも、大正の問題で出てくることもあります。

 

野口英世は、戦前から偉人として有名な人でした。昭和生まれの分かってる人なら、偉人伝と言えば野口英世だったことを、浜崎あゆみがユリ・サカザキだったりしたことといっしょに覚えているはずです。



野口の眠らずに研究し続ける姿勢や、命をかけて僻地に赴いて、最後は自らも黄熱病にかかって亡くなったことなどが悲劇的ということもあって、昭和のブラック教育者のハートをガッチリと掴んだんです。アイカツスターズの白銀リリィちゃんも、第88話「お正月だゾ☆全員集合!」で、「 医学博士の野口英世は言いました。「人の三倍・四倍・五倍の勉強をする者、それが天才だ」と 」と言っています。リリィちゃんは平成生まれですが。

 

ただ、野口英世はカネにかんしてはクズでした。たとえば、医者になるために上京するときに大金を借りるのですが、放蕩して2ヶ月で使い切りました。それで、医術開業試験の前期試験までは合格したにもかかわらず、後期試験前に下宿から追い出されました。

しょうがないから、知り合いの医者のところにもぐり込んだあげく、その医者から金を借り始めます。しかも、その医者が病院の予算を担当する立場になると、医者の給料の数倍ものナゾの援助をその医者から受け始めるようになりました。

そして、伝染病研究所の蔵書が野口によって貸し出された後に売り払われるといった事件とかは、証拠不十分だからおいておくとしても、内務省の海外仕事のために用意された、医者の給料でいえば2年分くらいの支度金(国民の税金)を放蕩して使い切ったり、その後の給料も放蕩で使い切って留学できなくなったりしたことは捨てておくわけにはいきません。

さらに、野口は温泉でナンパした、医療系志望の理系地味系メガネっ娘大学生、つまりアイカツスターズでいえば七倉小春ちゃん系のJDとの婚約を取り付けます。そんで、その娘の婚約持参金を船のチケットに換えて、アメリカにトンズラこきました。ここは怒っていいところですよ。そして、結婚適齢期の理系地味系メガネっ娘をほったらかして、5年ほど海外でふらついたあげくに、さらに数倍のカネをメガネっ娘の実家に要求します。それが断られると、野口は逆ギレして持参金を理系地味系メガネっ娘に叩き返して、婚約を破棄しました。もちろん、叩き返す金なんて野口が用意できようはずはなく、前に自分の生活費を貸してくれたり、ナゾの援助金をしてくれたりした医者に用意させました。繰り返しますが、怒っていいところですよ。

こうしている間にも、この後にも、野口はちょこちょことクズエピソードを撒き散らしています。ただ、これ以上調べて書いていくと、私の髪の毛が金髪になって逆立ちそうなので、この辺にしておきましょう。


スミズミまで効く 秦佐八郎(北里柴三郎の弟子)










明治時代には、世界最先端の研究を行う科学者が輩出されます。

予防療法も大事ですが、対処療法ももちろん大事です。今回は、サルバルサンという梅毒の化学療法剤を創製した、秦佐八郎(はた さはちろう)をみていきましょう。

《英訳してみよう》

「サルバルサンの盛り合わせを2人前下さい」

「こちらで摂取されますか?それともお持ち帰りですか」

「こちらで」


《英文》

"I'd like two servings of assorted arsphenamine(Salvarsan)."

"For here or to go?"

"For here."

(serving…一盛り・一杯、assort…補充する)

秦佐八郎は、新一万円ボーイの北里柴三郎の弟子です。秦佐八郎は、1873年3月23日に生まれました。3月23日は世界気象デー(World Meteorological Day)です。黒澤明とか紗倉まなとかの誕生日でもあります。

秦は日清戦争直後の1895年に、第三高等中学校医学部(現岡山大学医学部)を卒業しました。そして、すぐチヨちゃんと結婚しました。通学路とかで出会ったのでしょうか。あ、それは「ちお」ちゃんでしたね。

 

Men marry women with the hope they will never change. Women marry men with the hope they will change. Invariably they are both disappointed.

(男は結婚するとき、女が変わらないことを望む。女は結婚するとき、男が変わることを望む。お互いに失望することは不可避だ(byアインシュタイン))

英文参照:e恋愛名言集

 

しかし、結婚したその年に、秦佐八郎は一年志願兵(徴兵されたわけではない)として、軍に入ります。チヨちゃんにとっては、結婚したらいきなりパートナーが遠くに飛んでいったということになります。成田離婚ならぬ、成田入隊です。結婚していきなり志願兵になるとかいう、このへんの時代の人たちの感覚は、現代人にはよく分かりませんね。

 

Don’t let the door hit you on the ass on the way out.

(もう早く出て行け、このバカやろう!)

英文参照:『DARK HORIZON 2』

 

兵役を終えたあと、秦は地元の岡山に帰ってくるのですが、1898年には早くも、単身で上京して伝染病研究所に入所します。チヨちゃん、大変。それとも、もしかしたらチヨちゃんが秦を追い出したんでしょうか。秦は、日露戦争にも従軍したりとかしつつ研究を重ね、1907年にドイツに留学しました。

 

Hata sahachiro assisted in developing the Arsphename(Salvarsan) drug in 1909 in the laboratory of Paul Ehrich.

(秦佐八郎は、ポール=エールリッヒの研究所で1909年に、サルバルサンを創製するのを助けた)

 

Arsphenamineは、Salvarsanの一般名です。wiki先生によると、Salvareはラテン語で「救う」という意味だそうです。 ・・・ああ、サルベージということですね。なるほど。

教科書には「サルバルサンの創製」と書かれていますが、海外では、エールリッヒのアシストという認識のようですね。なるほど、サルバルサンは最初「砒素製剤606号」と名付けられましたが、これはエールリッヒが合成した606番目の試料という意味だったそうです。そして、サルバルサンに関する論文は、エールリッヒと秦の共著でした。

なお、サルバルサンにはヒ素が含まれていることや、その後に抗生物質が使われるようになったこともあって、今ではサルバルサンは使われていません。

 

私的には、すみずみまで効くあのバルサン(バルサンCM 1989年との関係が気になるところです。wikiを引用しますと、「『バルサン』ブランドの由来は、当時米国で爆発的な人気を博していた有機塩素系殺虫剤『バルカザン(Varcasan)』にちなみ、これにもともと中外製薬が有していた商標『バルサン(Varsan)』をあてたもの。また『バルカザン』から「カ」の文字を抜くことで、「カ="蚊"」を取るという解釈も含まれている」そうです。どうやら、サルバルサンとバルサンは関係ないようでね。



秦佐八郎が「創製」したサルバルサンは、ドイツの製薬会社から販売されていて、日本は最初はドイツから輸入していました。ところが、第一次世界大戦でドイツから医療品や化学工業品を輸入できなくなったので、日本はサルバルサンの国産化を目指すしかなくなりました。秦佐八郎は、鈴木梅太郎などの協力を得て、サルバルサンの国産化に成功し、アルサミノールの名前で販売しました。・・・ん?パクリってこと???それとも秦も何らかの権利をもっていたってこと??このへんの権利関係は、調べてもよく分かりませんでした。

 

 秦は、脳軟化症で、1938年に亡くなりました。65歳でした。


50年後の後悔 大森房吉

 

明治時代には、世界最先端の研究を行う科学者が登場します。地震大国日本。いざというときに、宇宙から来たロボット的なのが助けてくれるなら心強いですよね。

 

The mystery man, Omori Fusakichi, tried to make TRANSFORMERS, but ended up creating a seismometer.

(謎の男大森房吉は、トランスフォーマーを自作しようとして偶然、地震計を作り出した)

 

実写版トランスフォーマーの第一作、覚えていますか。もちろん、「トランスフォーマーって言ったら、映画とかじゃなくて、伝説のクソゲー『トランスフォーマー コンボイの謎』にきまっとるだろが!」って思った人は、分かってる人です

映画では、トランスフォーマーどうしの戦いに、ミカエラとサムが巻き込まれます。そのとき、バンブルビーが自分に乗るよう、ミカエラとサムの2人にうながします。初めて見るトランスフォーマーであるバンブルビーに乗るのをためらうミカエラに対して、主人公のサムが言いました。

 

Fifty years from now, when you're looking back at your life, don't you want to be able to say you had the guts to get in the car?

(50年後になって後悔したくないだろ?)(netflixの字幕。開始56分くらい)

 

私は精神論者ではありませんが、ここぞというときのガッツ(気合)はやっぱり大事です。個人的には、後悔しないために一番大事なことは「覚悟」だと思っています。

 

 

それでは、教科書で見たことある自然科学系の偉人をみていきましょう。今回は大森房吉です。

  大森房吉は、1868年10月28日(旧暦明治元年9月13日)、越前国(現福井県)に生まれました。ちょうど、江戸城が皇居となったころです。10月28日は、群馬県の県民の日です。

 

In 1899, Omori described his horizontal recording pendulum, later called an Omori seismometer.

(1899年、大森は水平記録式の地震計を発表しました。それは、のちに大森式地震計と呼ばれることになります。)

 

英語のwikiには、大森房吉は1899年に水平記録式の地震計を発表したとあります。他で調べると、1898年に大森式地震計を開発して、1899年に大森公式を発表したとあります。大森公式というのは、地震があったときに最初にやってくる揺れであるP波から、震源までの距離を決定する公式です。

英語版のwikiは、大森公式の年次と大森式地震計の年次を間違えたのでしょうか。それとも、大森式地震計の海外への発表は、日本で開発した年の翌年までずれ込んでいたのでしょうか。大森房吉は資料が少ないので、よく分かりません。大学以前の経歴も、けっこう謎なんです。この記事が「科学・技術史」シリーズではなく、「レトロゲーマー」シリーズだったら、タイトルは『地震計 大森の謎』にしていたところです。ヤング大森については、今度さらに調べておきます。 



このたび、この章を電子書籍化するにあたって、上山明博氏の『地震学をつくった男 大森房吉』を入手しました。この本を参考にして、ヤング大森についてみていきましょう。福井藩の下級武士の家に生まれた大森房吉は、パパが50歳のときの子どもでした。ときはなんといっても明治の世の中。武士であった大森家は廃刀令で身分と誇りを失い、明治9年の秩禄処分では安定収入も失いました。大森家は、明治10年、なんと歩いて東京に移住しました。福井から東京までは、600キロメートルもの距離があります。

そして、大森房吉は今の開成高等学校にあたる共立学校に進学して、群を抜く成績をおさめたといいます。授業料免除の特待も受けていました。その後も、大学を卒業するまで、授業料免除で援助金まで支給されるという厚遇を受け続けました。

大森式地震計の開発年次については、上山氏の本によると1898年でいいようです。少なくとも国内には同年に論文を発表していますので、英語版のWikiには修正が必要かもしれません。

 

話を戻しますと、大森式地震計のウリは、常時記録することが可能な点にありました。これによって、師匠のミルンの地震計では観測できなかった、P波も観測できるようになったんです。この大森式地震計は、国内だけでなく、海外でも広く使われました。ちなみに、まだヴェゲナーの「大陸移動説」も発表されていないころのお話です。

 

「日本地震学の父」とも呼ばれ、桜島大正大噴火でも大活躍した大森房吉でしたが、最後は運に恵まれませんでした

大森は、同じ東京帝国大学の今村助教授と「東京大地震襲来論争」をしていました。今にも東京で大地震が起こるという今村助教授に対して、大森は、すぐに大地震が起きるとは断定できないという立場でした。

ところが、1923年9月に、関東大震災が起こりました。死者10万人を超す大災害です。このとき、大森はオーストラリアの学術会議に出席していて、その場に居合わせることができませんでした。当時の人々は口々にウワサをしました。「地震の生き神さんと呼ばれる大森博士が、こんな大地震が起こることを知らないはずがない。きっと地震が起こることを知り、自分だけ日本から逃げ出したに違いない」(『地震学をつくった男 大森房吉』11ページ)と。

オーストラリアで関東大震災の報を聞いた大森房吉は日本に帰るのですが、そこで脳腫瘍が悪化してしまいます。帰国しても地震の調査どころではなく、大森は東大病院に入院することになってしまいました。10万人以上の死者がでた地震にあっても、東大病院は機能してたんですね。結局、大森房吉は入院したまま、11月にこの世を去ってしまいます。

21世紀の現代の知識がある我々なら、地震は予知できないことは知っていますが、当時の人々は大森を「大地震を予知できなかった無能な地震学者」と罵りました。大森房吉本人的にも、最後の大一番では悔いの残る結果になってしまったのかもしれません…。振り返ればその50年前、5歳になったばかりの大森房吉は福井にいて、まだ上京する前でした。そのときの大森房吉は、どんな50年後を思い描いていたのでしょうか

閲覧数:0回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Kommentare


bottom of page