世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんがお送りするYouTubeチャンネル「青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版を紹介しています(許可を得ています)。
中島:
歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして、河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。
青木:
お願いします。
中島:
日本国憲法ができるまで。戦後の話です。
青木:
10月ぐらいから、いろんなところで「こういう憲法をつくりましょう」という議論が始まっていく。一方、11月からドイツでニュルンベルグ裁判、ドイツの戦争犯罪人を裁く裁判が始まるわけですね。それと、それをきっかけにするようにして、日本もGHQがリストアップした、いわゆる戦争犯罪人の逮捕が始まっていくわけです。
中島:
うーん。
青木:
真っ先にリストアップされたのが総理大臣だった東條英機さんで、彼のもとに連合軍の将兵たちが向かっていくと、東條さんは「ちょっと待ってくれ」と言って、持っていたピストルで自殺を図るわけですね。
中島:
まあ、これが一命を取り留めるんですよね。
青木:
しかも、四発も自分の体に撃ち込んでいたみたいなので、かなり出血があったらしい。
中島:
けれども、どうしてもGHQとしては生かしておかなきゃいけない。
青木:
そこでどうしたかというと、その場にいた将兵に献血をさせるんですね。だから、アメリカ人の血液で東條さんは命をながらえることができた。
中島:結局、なんでこんなことになったのかっていうのを解明しなければっていう、まあこれに関しては、一つは、じゃあ個人が戦争犯罪として裁かれるのかどうかとか、なんかそこんところはちょっと置いときます。まあ、実際に東京裁判というのが行われたって。
青木:
まあ一言っておくとね。そのおっしゃった通りで、個人が戦争を起こせるのかと。まあ、その辺はやっぱりナチスドイツのヒトラーの独裁と日本は違うんで、だから、連合国の人たちはどうしたかというと、共同謀議があったと、みんなで話し合ってそういう方針を決めていったたという話を作っていくわけですよね。
中島:
いや、だから結局ね、戦争犯罪っていうこと自体もそれまでなかった法律で、今回裁かれるみたいなところはちょっと分かった上で置いときます。あのそうじゃないと、なかなかいや、そうなんですよ。じゃだって。戦争犯罪っていうのは、民間人を巻き込んでたくさん殺しちゃったりとか。結局そういうところですから。まあこの裁判については私だって言いたいことはあるんですよ。先生だって言いたいこともあるけれども、とりあえず歴史の事実を踏まえてお話をこうたどっていきますんで、置いときます。
青木:
で、東條さんが逮捕されると、次に誰が逮捕されようとしたかというと、近衛文麿さんなんですよ。彼の場合は、やっぱ日中戦争が始まったときの総理大臣なんですね。彼はどうしたかというと、逮捕される前に服毒自殺をするわけですね。で、近衛さんは亡くなってしまうんです。
で、日中戦争を始めた罪、あるいは日中戦争を始めてすぐに、いわゆる南京事件、南京虐殺事件が起きると、その罪を誰に問うていくかというんで、現場の最高司令官だった松井石根さんという大将。
そして文官のトップ外務大臣だった広田弘毅さんですね。
で、こういった人たちがまあ、特に広田さんの名前が急速にクローズアップさせられていくことになるわけですね。一方、前回のシリーズの最後に言いましたけども、一応、マッカーサーを中心とするGHQというのが日本占領の最高の機関なんですけども、実はアメリカのワシントンに極東委員会というのがあって、これが連合国の11カ国の代表が集まってくる組織で、これが実はマッカーサー司令部よりも上なわけ。そのその日本における出先機関がいわゆる対日理事会です。ちょっと図解にしましたけども。その会合はですね、1945年の12月ぐらいに始まっていくわけです。で、GHQのメンバーが極東当委員会とか対日理事会の連中で話したところによると、彼らは彼らで日本に対する新しい憲法案を示すつもりがあると、まだ具体的なことはよくわかってなかったけども。まあオーストラリアもソ連も入っているんで、ひょっとすると天皇制を否定するような、そういう憲法案が出てきてしまう。で、それが公表されたらもう、マッカーサー司令部としてはもう身動きが取れなくなるわけで。こうして翌年の1946年になって状況がガーッとまた動き始めるんですね。で、まずはマッカーサー司令部で、ある意味サジェスチョンなんですけども、とりあえず「戦前の天皇陛下と今の天皇陛下は違うんだ」ということを、天皇自らのお声でもって、お言葉でもって発表すべきではないかというのが、意見としてマッカーサー司令部から出されるんです。その意見に対して昭和天皇も賛成であると、自分は神様ではないと、天皇の子孫ではあるけど、天皇家の子孫であり、その天皇家では系脈というのは尊いものではあるとは思うけども、自分は神ではないと。で、そのことについてはやはり国民に対して表明すべきではないかなということで、1月1日に、いわゆる天皇の人間宣言。
中島:
人間宣言ですよね。これもう本当、ああすごい言葉だなあって、歴史で習った時に思いました。
青木:
ただ、結構長い文章なんですけどね、いわゆる人間宣言と言われるものの中に、人間っていう言葉は出
てこないんです。で、昭和天皇自身がなんとおっしゃっているかというと、自分は現神、すなわち地上に姿を現した神ではありませんよと。で、そういうものではないんだけども、これまで通りに国民の皆さん、お互いに信頼関係の中でやっていきましょうと。もう一つ大事なポイントがあって、民主主義という概念は第二大戦に負けた日本がアメリカなんかから押しつけられる、そういうもんじゃありませんと。日本にも民主主義の伝統がありますというんで、人間宣言の中で、特に昭和天皇が強調しているのが、五箇条の御誓文なんです。
中島:
うわぁ、そうですか。
青木:
五箇条の御誓文って、それこそ明治維新のときですね。明治天皇が発表する文章だけども、第一項目がなんかというと、「万機公論に決すべし」と。要するにみんなで議論して、この国の将来を決めていこうと。で、この文書に代表されるその五箇条の御誓文こそ、日本にも民主主義の伝統があったということの一つの証だよと。1977年にね、昭和天皇在位50周ということであの記者会見をされたんですよ。その時にその人間宣言のことを聞かれて、記者から。その時に昭和天皇自身が正直に、いや、あのときに自分が一番言いたかったのは、民主主義の伝統は日本にもあると、その五箇条の御誓文を一番言いたかったと。ちなみに、いわゆるこの人間宣言の草案を書いたのはアメリカ人です(※後述)。当時ね、あの学習院のまあ、英語の先生やってたアメリカ人の先生ですね。レジナルド・ブライスという先生です。
中島:
あのじゃ日本について詳しかったっていう人なんですか?
青木:
めっちゃくちゃ詳しくて俳句の専門家。
中島:
ええ?
青木:
日本語の機微っていうのよく分かってる人だったんですよ。
中島:
いやだって、俳句は短歌以上にすごいんですよ。
青木:
難しいらしいですよね。
中島:
いやいや、だって。 575の17文字で絵と同じようなものを、、、匂いとか音とかまで再現性があるっていう。たった17文字ですよ。圧倒的な描写主義です。
青木:
で、それを専門にしていたレジナルド・ブライス。あごめんなさい、アメリカ人じゃなくてイギリス人ですね。
今の上皇陛下に英語を教えてた先生でもあるんですよ。で、あともう一人いて、その2人で草案を作って、宮内庁の人たちにこれでいいでしょうかねと。あとで天皇もオッケーされて、人間宣言になった。さらにこれもね。GHQのサジェスチョンがあったらしいんだけども、天皇のお顔ってみんな知らない。写真でしか。で、天皇制が変わったんだと、天皇陛下の存在も変わったんだっていうのを国民にアピールするためにも、巡幸されてはどうですかと、地方を巡ってはどうですかと。これもGHQの方から意見が出るわけです。すると天皇、昭和天皇も、そうですねということになって、この年。人間宣言の翌月2月から、神奈川を皮切りにずーと全国を回っていった。でこれもまたあのすごく影響が大きくて、多分肉眼で天皇陛下を見るのって初めてですよね。
中島:
もうだから、結局旅行とかがほぼほぼなかった時に。。。
青木:
ついでに言うと、これもね明治天皇がやってるんですよ。
中島:
実際ね、あの明治になった時に、世の中が変わったのでやったって聞いたことある。
青木:
かなりつらい旅やったけども、もうやっぱり自分の存在を知らしめるためには、もうやむを得ないというんで、やったらしいですよ。それと同じように昭和天皇も戦争で傷ついた人々の心を癒すのを目的の一つで、もう一つは、自分は変わったんだと。そのことはやっぱ国民にアピールするということで、何もこれ写真持ってきたんですが、これ場所わかりますよねえ。
中島:
あ、広島だ。原爆ドームだ。はああ。
青木:
原爆を落とされた広島。たぶんね、広島市民の中にはね、最高司令官である昭和天皇の決断が早ければ原爆投下なかったんかもしれないという気持ちを持っている市民も多分、少なからずいたと思うんですよね。だからこう。広島に巡幸される時にはかなり緊張感があったらしいんですよ。ところが蓋を開けたらこの状況ですよ。
中島:
いやでも、一つはもうなんていうか希望がない中で、陛下が来られると、、、これなんでしょうね。日本人の中で、、、なんかこう、、、まあ、陛下ってやっぱ独特の、、、いや、僕たちまあ、僕たちっていうか、先生と僕はまたちょっと世代も違うんですけど、僕の中でもまあ、、、昔はよくわからなかったんですが、そのやっぱりこう、、、勲章を叙勲される人たちが皇居に行って陛下と話される時の、あの表情って、なんかわからないでもないなあ、、、と思うんですよ。
青木:
それこそね、野坂昭如さんの言葉を前回紹介したですけれども、不思議な体温がある。国体とかね、天皇の存在っていうのは。あるいはこんな写真もマスコミで明らかにされるわけですよ。皇后陛下が昭和天皇の髪の毛を直している。
中島:
今までじゃありえないことですよね。
青木:
しかも、よそ行きの格好してくれる。上皇陛下というのね。
中島:
でちょっとこう、なんか家族旅行に、、、ね。
青木:
ふつうの家族なんです。
中島:
だからもう、那須の御用邸の様子とか、避暑地の様子とか、あんなん、ちょっとホッとしますよね。
青木:
これもね当時有名になった写真で、これは福岡の嘉穂郡です。49年だから昭和24年に来られるんです。で、その時に、このおばあちゃんが写っているじゃないですか。おばあちゃんが、「天皇陛下どこじゃろかい」と言うんで探してらっしゃる。実は天皇陛下が横にいるという。
中島:
いやでも、顔がよくわからなければ、まず本当に存在するのかっていうところの人たちの世代ですから。
青木:
特にやっぱり戦前の教育を受けた人たちにとってはね、天皇の顔を見るというのはすごく大きかったじゃないかな。そしてもう一枚僕が紹介したいのはこの写真ですね。アメリカの将兵に守られて天皇が巡幸していると。冒頭にも申し上げたように、巡幸をしてほしいというのは、実はGHQの方から、まあ依頼とまでは言わないけども、巡幸されてはどうですかね、っていうような意見の打診があったんですね。それにまあ、昭和天皇がまあお応えになったということなんだけども、まあ、その戦勝国の兵士が敗戦国のリーダー、旧リーダーを守りながら巡幸しているというのが、なんか戦後の日本のありようを象徴的に示すものだなと。で、実際にマッカーサー司令部も各地で歓迎され、ある意味戦前と同じように、崇拝といったらちょっと語弊があるかもしれんけども、天皇陛下万歳でみんな受け入れるわけですよね。で、そういったことをマッカーサーたちもGHQのメンバーも再認識して。アメリカのマッカーサーの上にいる最高の軍人のアイゼンハワーにですね。彼に書簡を送るわけですよ。天皇に責任はないと、少なくとも日本国民はそう思ってると。これがこの巡幸でよくわかったと、そういう手紙をね、書簡を送っているんです。これがその原文です。
もうアメリカはね、第二大戦に関する文章は全部公開すると。
中島:
もう、あれですかね。もう期間ももうあれですよね。
青木:
七年ぐらい前に全部公表しなければならないという法律ができた。
中島:
オレ、もう、、、日本の、、、俺もちょっとこここで閑話休題で言っていいですか。なんだあの黒塗りは。アホじゃないかと?歴史家が全然検証できないじゃないかと。
青木:
小役人どもがね。そういう判断をしてさぁ、もう、、、でまあ、確かに明らかになることによって、例えば国際関係は悪くなるとかね。それはありうるけど。
中島:
それで国が危うくなるっていうんだったらしょうがないけど、、、全部黒塗りして「はい公開しました」って、公開してねえじゃねえかって、、、すいません、次の回に移ります。
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