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田中角栄とその時代(2)角さんと戦争【青木裕司と中島浩二の世界史ch:293】

執筆者の写真: 順大 古川順大 古川


世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。


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田中角栄とその時代(1)田中角栄、生誕


中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして世界史の青木先生です、よろしくお願いします。


青木:

お願いします。


中島:

田中角栄さんを見ていこうということで、生い立ちからシリーズ2回目です。


青木:

そうですね、14歳で高等小学校を卒業して、土木建築の現場でずいぶん大変な目にあった、きつかったと。



彼は家計を支えるために東京に行くわけです。今の理化学研究所、いわゆる理研。その研究所長が大河内正敏さんというかたで、今でも理研ってありますよ。理研の発展の基礎を作った人。理化学研究所って研究所なんだけども



中島:

いわゆる国の技術の粋を集めたところですね。


青木:

しかも研究だけじゃなくて実際にいろんな工場を作って経営なんかもやっていくんです。当時の言葉で言うと理研コンツェルン。特に30年代に日中戦争が始まって、太平洋戦争が始まって、国策として戦争に寄与するような理系の研究が必要になってくる。それでグワーっと発展していく。ちょうどその理研が大発展を始めようとするときに角さんはある人の紹介で所長の大河内正敏さんを訪ねていくわけです。ところが、ピンポンと押したら所長の大河内さんはいなかった。書生みたいな人が出てきて「うちの所長は誰ともお会いになりませんから」といって門前払いされる。

彼は行き場を失って路頭に迷うわけです。ところが、いろんなところに就職するわけです。東京にいる間、成人するまでの5年間の間に6件ぐらい彼はいろんなことを経験してるんです。


中島:

仕事をですね。


青木:

それは必ずしも建築業界だけじゃなくて貿易商とか、いわゆる職を転々とするという感じ。ただすごいなと思うのはそこで彼はいろんなことを学ぶんです。


中島:

見える人なんだろうなあ。


青木:

くよくよしないんですよ。常にポジティブで、なにかの仕事を辞めて別の仕事に従事することがあった。これはある意味天命であると。天の采配でそういうことをしろと言われてるんじゃないかと。そこで学べるものをしっかり学んでいくんです。

そしてひとつ印象的だったのが、輸入雑貨を扱う高砂商会というところに期せずして就職するわけです。そこは家族経営のお店で、あるとき外国から輸入したガラス器を注文の家に届けるときに操縦していた自転車がひっくり返っちゃって割っちゃったんですよ。「高価なものを割ってしまった。どれだけ怒られるかわからない」と。その商店主の高砂さんのところに行くわけです、「すいません、割ってしまいました」と。高砂さんはまず開口一番なんと言ったか「おい、ケガはなかったか」と。


中島:

人との出会いですね。


青木:

そういうところがね、それがすごく印象に残っていて。先走って言っちゃうけども、このあと角さんっていろんな人と出会うじゃないですか。トップに立つ人間になるじゃないですか。部下の失敗を責めないんだって。そのときの高砂さんから「君、ケガはなかったか?」と。



中島:

そこで学んだんですね。そのひとつひとつをもし言われたとしてもちゃんと学べるかどうかですよね。


青木:

そうそう。そういったことが血となり肉となっていく、一言で言っちゃうと頭が良い人だったんですよ。結局そうことよね。それはすごく、『田中角栄』という本があって、今回のシリーズの定本(底本)のひとつなんですけども、早野透さんという朝日新聞の記者のかたで、いわゆる田中角栄さんの番記者をやっていた人なんです。マスコミの代表として角さんの一番近くにいた人なんですよね。その人の本の中に書いてあったんですけどね。



そんなこんなでいろんな職業を転々とするようになったと。中村建築事務所というところに彼は就職するわけです。東京に行ってからも物を作る仕事、建築の仕事をしたいというので建築技士になるための勉強なんかを夜学に通ってやっていたらしいんですよね。中央工学院というところに行って。だから最終学歴、実は彼自身は中央工学院というふうに書くらしいです。今で言うと専門学校かな、そういうところに行って建築士になるための勉強をずっとやってらっしゃった。

その中村建築事務所なんですが、社長の中村さんが徴兵で取れちゃうと。結局彼はそこにいられなくなって19歳の若さで共栄建築事務所というのを立ち上げるわけです。共栄、共に栄える。建築事務所を立ち上げて、そのときが19歳です。



1937年、日本でなにが起こるかというと日中戦争が起こる。それまでも日本っていろんな戦争をやってきたけども、その前に満州事変とかもあったけども、日中戦争というのは中国と日本の全面戦争です。満州事変のレベルじゃないんですよ。

どうなったかというと、臨時軍事費という名前で軍隊が自由に使える、特に陸軍が自由に使える予算というのがバーンと増えていくわけです。これも言葉は悪いけどもそのおこぼれに多くの建築業界、そしてさっき名前を出した理研、これがこれで潤っていくわけ。

ある意味戦争バブルというか、それに乗って田中さんの19歳で立ち上げた建築事務所も理研から仕事をもらうようになって。大河内さんとそのあと出会って、「門前払いした、それは悪かったな」というので、しかも大河内さん自身が会った瞬間に田中さんの才能というか、わかって、いろんな仕事を若僧がやってる会社に任してくれるんだと。

実際に日中戦争が始まって軍関係の仕事で共栄建築事務所、田中建築事務所もぐーっと上がって。軍の予算がブワーっと膨れ上がっていくのをなんとか抑えようとした大蔵大臣が高橋是清さんで、2・26事件で日中戦争の前に殺されるじゃないですか。その高橋是清さんから薫陶を受けたのが福田赳夫さんで、高橋さんが暗殺されたあとも陸軍の代表と渡り合って、なんとか軍の予算を抑えようと。福田さんは軍の予算を抑えようとしていたし、バーっと広がっていく軍の予算で田中さんは潤っていくわけです。



中島:

そこもものすごくやっぱり、奇しくもという、歴史のいたずらじゃないけれども。


青木:

そこは因縁を感じましたね、僕も。この頃から、もちろん面識はなかったと思うんです。だけど


中島:

まったく違う考え方のところでやっているということですよね。


青木:

実際に共栄建築事務所も発展する。ところが翌年20歳、20歳になると徴兵検査が待ってると。田中さん、体は強かったらしくて、甲種合格ですよ。お父さんが牛や馬の商人をやってたじゃないですか。その関係もあるかもしれんけど騎兵連隊に配属されるんです。角さん自身は馬に乗れたわけじゃないんだけど、なぜか騎兵連隊に配属されて、盛岡騎兵第3旅団第24連隊に入隊。そして翌年、当時の徴兵って2年間徴兵の義務がありますから、翌年の1939年に満州に派遣されるわけ。関東軍に派遣されるわけです。

1939年というと日本が作った国、満州国と隣国ソ連との間に武装衝突事件が頻繁に起こって、その最大のものがノモンハン事件です。



日本の将兵だけで2万人亡くなっていますよね。実際に田中さんの連隊からも多くのベテラン兵が動員されて前線で亡くなっていると。じゃあ田中さんはどうだったかというと、少なくとも記録を読む限りにおいては彼は戦場には1回も行っていないです。

なぜそうだったかというと、ひとつは彼、算数もできたし、文章が長けていたらしいんです。だから事務能力があったんです。軍隊というのは我々の想像以上に実は書類仕事が多くて、たとえば戦闘がありますよね。どんな戦闘があって、どれだけ被害があって、相手にどれだけの被害を与えたかというのをきちんとした文章にせにゃいかん。これは戦闘詳報といって、軍を運営するための基本的な文章になるわけ。ところが、必ずしも読み書きに慣れていない人たちがその文章を書くと間違いがある。その多くの間違いの出てきた文章を誰かが修正しなくちゃならない。それに田中さんは抜擢されるんです。完璧な書類に仕上げるらしい。彼は兵隊の位の中で下のほうだったけども上官たちに優遇されるようになる。戦場で、前線で使うよりも軍隊の運営のための事務仕事のためにこの男は使ったほうが良いと。これがある意味田中さんの命を守るわけ。

要領も良かったらしいですね。たとえば兵隊たちに食料とか物品とかあるいはお酒とかを配給する酒保という部門があるんです、物品販売。そこを任された。あるときそこのお酒をみんなで飲みよった。上官が来て「貴様らなんで飲んでるんだ」と怒られたら、「いやいや、割れたお酒がありまして、もったいないから飲んでるんですよ」と言って、それをまわりの一緒に飲んでいた連中が聞いて「こいつは口もうまいな」と。ただ軍隊なので中では暴力が横行していたと。上官の機嫌が悪いと年がら年中ひっぱたかれる。田中さん自身も軍隊に入って確か満州に行ってすぐにぶん殴られるんですよね。なぜかというと、持ち物検査があった。その持ち物検査をやっていたら、そこからアメリカの女優のブロマイドが出てきた。


中島:

誰だったんですか?


青木:

ディアナ=ダービンという人で、昔「オーケストラの少女」という、確かアカデミー賞を獲ったんじゃないかな、有名な映画で、その主人公なんですよね。戦前の日本では結構有名だったアメリカの女優。



ディアナ=ダービンさんのブロマイドを持っていて、「貴様、これはなんだ」と。「ディアナ=ダービンといってアメリカの女優です」「貴様なんでこれを持ってるんだ」「こういう人と私、結婚したいと思ってまして」と言った。そしたら何発もぶん殴られた。


中島:

当時はアメリカと戦争してるわけじゃないですからね。


青木:

まだね。それでもぶん殴られて。その横行する暴力に本当に嫌気が差していたと。さらにはさっきも言ったように部隊の中のわりとベテランの兵士たちは前線に送られるじゃないですか。それこそノモンハン事件でたくさんの人たちが棺に入って帰ってくるわけです。思ったのは「ここで死んでたまるか」と。そしたらそのタイミングで彼はクルップ性肺炎という病気にかかるわけです。結核に似たような症状が出てくるわけ。結核といったら当時は不治の病なので、とりあえず軍隊から離されて本国送還です。仙台の陸軍病院で、これもこの本に書いてあったけども、かなり生死の間を彷徨ったと。1年ぐらいで病状が治まって、そこで除隊になる。


中島:

数奇な運命ですね。


青木:

いろんな偶然というのかな。


中島:

もちろん偶然なんですよね。


青木:

それ以降、2回目の徴兵というのはなかったらしいんです。結核に似た病気だということで。



中島:

ということかもしれないですね。


青木:

うちの祖父なんかは2回ぐらい招集されてるんですよ。30過ぎてから2回招集されて2回とも中国に行って。田中さんの場合は病気、除隊で、そのあとは東京に戻って建築事務所、土木建築の会社を発展させる。

実際にあの除隊して本業に戻ってからも太平洋戦争が始まるんですよね。ちょうど彼が除隊して本業に戻った次の月かなにかに太平洋戦争が始まるんです。すると、これまでとは比べ物にならないような受注がブワーっとやってくる。だから戦争中の4年間はひたすら田中土建工業の発展の時期だった。

その段階でもまだ20代前半ですよ。なんだけども田中土建工業ってその段階で日本で50番ぐらいに入る、土建屋さんとして。日本で50番だけど都道府県は40いくつかありますからね。都道府県単位でいうとそこで一番ぐらいの力を持つような大企業、優良企業に発展していくわけです。

1945年に日本は敗北する。じゃあ戦後の日本、田中さんがどう生きていこうとしたのかということです。


中島:

次回に続きます。



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