世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの「青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。
(前回の記事 田中角栄とその時代(7)首相就任と日中国交正常化はこちら)
動画版:「田中角栄とその時代(8)狂乱物価と石油危機」
中島:
歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして世界史の青木先生です。よろしくお願いします。
青木:
お願いします。
中島:
田中角栄さん、ひとつの大きな功績、日中国交正常化という話までしました。
青木:
あの頃の内閣支持率はたぶん70%を超えていたんじゃないかな。僕が高校生のときに彼は総理大臣になったんですけども、あの頃子供たちが読めるような角栄さんの伝記が発刊されたんです。僕もそれを読みました。苦学して総理大臣まで昇り詰めて日中国交正常化という大きな仕事をやった。
一方で内政の面に関して田中さんが一番ポイントとしていたのは国民の生活。特に道路網を整備して産業を発展させて、田舎に住んでいる人たちにも豊かになってもらうみたいなことが彼の内政の面では大きなポイントだったんです。ところが60年代に高度成長、それこそ給料が毎年10%から30%上がる。それが数年続くとその反動が出てくるわけです。ちょうど田中さんが総理大臣になった頃にちょっとかげりが見えてくるんです。日中国交正常化のあとに総選挙をやったんだけども、自民党って大勝しなかったんです。ちょっと議席を減らすぐらいだった。
73年、あの有名な本が出るわけです。いわゆる「日本列島改造論」。
中島:
日本をこんなふうにしたいということですよね。
青木:
そうですね、基本的にはさっき言ったように道路網を整備して東京や大阪に集中している、もっと言うと太平洋側に集中している工業地帯を日本全国に広げていこうと。そういうことで「日本列島改造論」というのを出すわけです。
実際には彼が1から10まで書いたわけじゃなくて、彼と心を通じている官僚たち、それから早坂さんですね、秘書である早坂茂三さん。こういった人たちが実際には文章を書いたらしいですね。実際に執筆に携わった通産官僚、そのひとりが小中慶一さん、そして池口小太郎さん。池口小太郎さんはのちに小説家、堺屋太一さんになるわけです。堺屋太一さんはもともと通産官僚です。
中島:
という話は聞いてましたけれども、堺屋太一という名前はペンネームですか。
青木:
そうそう、ペンネームです。本名は池口小太郎。「日本列島改造論」というのを書くわけです。言っていることはそんなに間違ってはない。ところが田中さんの本を書かれた早野さんによると、この「日本列島改造論」に決定的に欠落しているポイントがあった。それはなにかというと、地価の高騰に対する対策だった。道路を作って工場を作る、当然地価は上がるわけです。単に地価が上がるだけじゃなくて土地の値段が上がると物価全体が上昇する可能性があるじゃないですか。物価上昇、そしてインフレ。それは田中さんが一番大事に思っている庶民の生活を直撃するわけです。このへんに関する分析が決定的になかったと。とりあえず道路を作って工場を作って突っ走ろうみたいな気持ちが先行しすぎたんじゃないかというふうに朝日新聞の記者である早野さんは分析されているんですよね。
今から考えるとその側面は否めないし、なおかつ国の責任でいろんな公共事業が行われるようになると利権も発生する。それにアリのように群がってくる業者たち。それをどういうふうにコントロールするか、そのへんも「日本列島改造論」には残念ながらその視点が欠けていた。もっと言うと「日本列島改造論」によって田中さん自身も自分のやっている会社、田中土建もそうだし、不動産会社の室町産業ですね、彼の作った会社ですけども、そういったものも当然肥え太っていく。それがまた政治資金として利用されていく。
そういったことに対する批判がポツポツと出始めていく。なおかつ日本列島改造で自然環境を破壊したりする。これは公害の拡散につながっていく。公害の問題も60年代の後半ぐらいからどんどん議論になっていく。72年には国際連合が人間環境会議というのを開いて地球的規模で公害が問題だよと。日本もそうですよねという議論がちょうど始まる頃に角栄さんは総理大臣になるわけです。日本列島改造論がある意味日本における公害をより拡大したんじゃないかと。それが議論になっていくわけですね。
こうして72年、総理大臣になった前後、日中国交正常化の前後、頂点だった田中さんの人気がだんだんかげっていくわけです。実際に早坂さんもおっしゃっているように土地の値段が上がって、それは日本にインフレを持ち込んでくると。あまりにも急激に物価が上がっていくので、これに対して福田さんがなんとおっしゃったか、「狂乱物価」というネーミングをつけるわけです。
それに輪をかけて1973年の10月に第4次中東戦争が起こり、オイルショックが起きるんですよね。日本とアメリカは友好国、アメリカとイスラエルは友好国、そのイスラエルとアラブの国々は敵対している。アラブの国々は「我々の敵であるイスラエル、その背後にいるアメリカ、こういう連中と仲が良い国々に対しては石油を売らない」と、いわゆる石油戦略。一番困ったのは一滴も石油が採れない日本だった。
これも前も申し上げましたけども日本は石油を確保するためにアラブの国々と仲良くするか、あるいは軍事同盟関係を結んでいるアメリカとの友好関係を優先するか、究極の二者択一に迫られた。そのときに角さんがどういう判断をしたか。これは石油のほうを優先すると。官房長官だった二階堂進さんが第3次中東戦争でイスラエルが占領している地域、いわゆるガザ地区やヨルダン川西岸地区からは直ちに撤退すべきだと、これを日本政府のコミュニケとして発表するわけです。アラブの国々寄りの外交というのを明確に表明するわけです。これでアラブの国々は「わかった」と。「日本はアメリカの手先だと思ったけどそうじゃなかったんだね。じゃあ石油の供給はこれまで通り続ける」と。これにニクソン政権の補佐官だったキッシンジャーが激怒して日本にやってくるわけですよ。日本にやってきて会談をするわけですね。「君たちはアメリカを裏切るのか」と。「アメリカを裏切ってアラブの石油を優先するのか」と言われたら田中さんがなんとおっしゃったかというと「じゃあ安い石油を売ってくれよ」と。「売ってくれないんだったらこの問題についてはなにも言ってくれるな」と。言われたキッシンジャーが「クソ」と思うわけですね。
中島:
本当になんというか、ここのところはね。今アメリカに対してそういうふうに言える人がいるのかなという。
青木:
戦後の日本の外交って基本アメリカべったりでアメリカの言いなりだった。ただたぶんこのとき唯一ですよ、アメリカを怒らせたというのは。経済的にはいろいろな摩擦はあったけども、政治外交的な問題でアメリカと意見が真正面から衝突したというのはたぶんこのときで、なおかつアメリカに対して引かなかったのは角さんだけじゃなかったのかなという気はするんです。
中島:
そうですよね。
青木:
ただ一応石油は来たけども石油の値段がガンと上がっちゃったので、石油の値段が上がったらすべての物価が上がりますよ。当然ながら運搬費にもお金がかかるし、ガソリンが上がるわけですから。だからますます狂乱物価が激しくなっていく。経済政策、にっちもさっちも行かなくなったというときに大蔵大臣だった愛知揆一さんが亡くなってしまう、急死されるんです。物価がめちゃくちゃ上がっている中で大蔵大臣の愛知揆一さんは心身ともに疲れはてて心臓麻痺かなにかで亡くなるんです。じゃあ誰に大蔵大臣をやっていただくか。誰がどう見たって福田さんしかいないんです。当時群馬に里帰りしていた福田さんの元に角さんが電話をして「ちょっと急いで話がある」と。福田さん自身は大蔵大臣になってほしいという話なんだろうなと。「わかった」「すぐ話したい」と。「じゃあこれから東京に戻るんだな」と。パトカーを派遣しているからパトカー先導で帰ってきてくれと。
中島:
それぐらいもう。
青木:
切羽詰まっていた。田中さんと福田さんのサシの話し合いが始まって、「もうイケイケドンドンの時代は終わったんだよ」と福田さんがおっしゃる。「私は大蔵大臣になって今のこの大変な状況をなんとかする覚悟はある」と。「ただそのためには総理大臣、田中君、日本列島改造、この旗を下ろしてくれ」と。ただ田中さんは「わかった」とおっしゃったらしいですね。
中島:
自分が思っていることよりも国がちゃんとならないとってことですよね。
青木:
そうですね、自分が掲げた理念よりも今の現状のほうをなんとかする、そこはそれで柔軟なんですよね。
中島:
それは国民がヒーヒー言ってるんだったらそんなこと関係ないですもんね。
青木:
そこで大きな方針転換を、田中さんとしては屈辱ではあったのかなと思うんですよね。
中島:
でもそれはそうせざるを得ないですもん。
青木:
そうそう。そんな自分の屈辱なんかよりはここは福田君に任せて、福田さんのほうが年上なので福田さんに任せてなんとかやってもらおう。高度成長から総需要抑制策、要するに「消費は美徳だ。たくさん物を作ってたくさん買ってもらってみんなが喜ぶ。そういう時代は終わったんだよ」と、国民にそれを訴えていくわけです。総需要管理政策、別名総需要抑制策というのが福田大蔵大臣のもとで展開されていくことになる。
こうして田中さんは外交の面ではいろいろあったけども、業績を挙げたけども、経済政策財政政策の面ではあまりいかなくなった。やっぱりオイルショックの影響というのは大きいですね。
中島:
だと思います。外的要因も結構あったんじゃないかなという気はします。経済って難しいんですよね。
青木:
難しいですね。ある意味これまでの田中さんって、いろいろ運にも恵まれてやってこられたけども、その運がちょっとここでは悪いところに行ってしまったと。ただこのとき石油だけに頼っていちゃまずいというので、1974年に電源三法という法律が議会を通過するんです。はっきり言うと石油だけに頼るエネルギー政策だけじゃなくて原発をバンバン作っていきましょうと。
ここから田中さんの選挙区である柏崎にも大きな原子力発電所が作られていくと。その原発のひとつが大きな事故を起こして大変なことになっちゃったわけですけども、ただこのときは国民の多くは結構納得してたんですよ。原子力発電所の持つ危険性よりは石油危機大変だったよね、オイルショック大変だったよねと。それに対して石油を使わない原子発電所、良いんじゃない?と。原子力発電という言葉がある程度夢を持って。
中島:
実際はもうちょっと前、60年代ぐらいからもう
青木:
言われてたんだよね。
中島:
そうなんですよね。いろんな人たちが日本がいわゆる太平洋戦争に最終的な決断を迫られたのはやっぱり石油が止められたというところもあって、もう昭和30年代からずっとですね、エネルギー、夢のエネルギーということでありましたよね。
青木:
茨城県の東海村の原子力研究所みたいなものが夢を持って語られていたんです、僕の小学生時代にはね。なのでそれをちゃんと利用していこうという議論が出てくるわけです。フランスなんかからも濃縮ウランを買い付ける。フランスは喜んだらしいですよ。フランスは原発に関しては先進国なので、濃縮ウランなんかもたくさんある。「買ってくれるんですか」と。当時のシスカールデスタン大統領が喜んで「じゃあ濃縮ウランを買ってくれる日本にはモナリザをお貸ししましょう」と。これでモナリザが日本に来るんです。
中島:
今後も、良い悪いは置いておいて、ずっとエネルギーって使い続けなきゃいけない、この生活を。そうなったときにどうエネルギーを確保していくかというのは日本はずっと話さなきゃいけないところになりますよね。
青木:
そうなんですよね。オイルショックがきっかけで原子力発電所のほうに舵を切っていくというのは流れとしては理解できなくはないんです。ただ安全を担保するには原子力発電所というのはあまりにも危険性が大きすぎだと、そのことを我々はのちになって本当に思い知ることになるわけですよね。
そして田中さん自身も74年に大きな分岐点を迎えることになるわけですね。それについては次回。
中島:
わかりました。
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