The manager has his eyes always on the bottom line;
the leader has his eyes on the horizon.
( マネジャーは足元を見つめ、リーダーは地平線を見つめる(ウォーレン・G・ベニス))
江戸幕府の4代将軍は、徳川家綱(いえつな)です。
1651年8月18日、家綱はわずか11歳で将軍に就任しました。
豊臣秀吉が1598年の8月18日に没してますので、そのちょうど53年後です。
関ヶ原の戦いからだと51年、だいたい半世紀が過ぎているわけです。
大阪の役(1614~15)からも35年経っているので、家綱が就任したころには、実際に戦争を経験した人もだいぶ減っていたかと思われます。
ちなみに、8月18日は「米の日」です。「米」という漢字を分解すると「八十八」になるからだそうです(http://www.nnh.to/08/18.html)。
徳川家綱は、1641年8月3日に生まれました。八と三つで、はちみつの日です。
3代将軍徳川家光の長男である家綱は、早くから跡継ぎと決められていたといいます。
家綱は、基本的に趣味人で、絵を書くのとかも好きです。この人の絵はかなりユルイので、ぜひ画像検索することをおすすめします。
家綱がまだ幼少で、将軍就任から間もないころ、天守閣の上で近習の者が赤外線機能のある遠眼鏡で町を眺めることを勧めたのですが、「自分は幼くても将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡であたりを見下ろしていると人々が知ったら、人々は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らず、町を眺めることはなかったというエピソードがあります。
政治はあんまりやる気なかったようで、部下の提案にはすべて「左様せい(あーもう、それでいいよ)」と答えていたことから、家綱には左様せい様というあだ名があります。
リーダーシップとは何なのか?と考えさせられます。リーダーなら、町全体や地平線くらいは眺めて、世の中の全体像くらいは知っておく心構えが必要なのではないのでしょうか。
ただ、リーダーシップに大いに疑問のある将軍の時代が30年近くも続いたにもかかわらず、家綱の治世は比較的安定していて、「おいっ」ってツッコミやすい政策とかもありません。保科正之などの人材に恵まれていたのことも幸いだったのでしょう。ただ、カネにはテキトーで、パパ家光が残した財産を、家綱は死ぬまでに5分の1以下にまで減らしてやりました。
江戸時代の将軍のなかでも、かなり運のいい時代に、かなり運のいい環境で将軍になれたというところでしょうか。
家綱には男子がいなかったので、跡継ぎ問題が起こりそうになりましたが、家綱が自らの死の数日前に館林藩主の松平綱吉(後、5代将軍徳川綱吉)を養子としたため、なんとか跡継ぎ争いを避けることができました。
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