受験生・学生の質問を受けつています。
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以下の問いに答えられますか。
解答例はページの下の方で。
1. 南宋と日本の経済的・文化的交流と、モンゴルの要求に対する日本の対応の関係を説明できる。
2. モンゴルと日本の戦術の相違に触れつつ、蒙古襲来の経過を説明できる。
3. 中国・朝鮮の民族的抵抗と蒙古襲来との関連性を説明できる。
4. 蒙古襲来をきっかけに幕府勢力が西国に浸透したことの影響を、非御家人に対する権限拡大の面から説明できる。
5. 御家人と御内人の対立の背景、経過、結果を説明できる。
6. 琉球における貝塚時代からグスク時代への変遷を説明できる。
7. 蝦夷ヶ島における文化の変遷と、十三湊との関連性を説明できる。
8. 蒙古襲来後に御家人が疲弊した背景を説明し、女性の財産権や地位が低下していく過程を説明できる。
9. 御家人の疲弊に対する幕府の対応と、その効果と影響を説明できる。
10. 鎌倉仏教の成立の背景と、武士や庶民に普及した理由を説明できる。
11. 鎌倉仏教の出現に対する旧仏教の改革が、戒律厳守や社会事業に向かった理由を説明できる。
12. 中世文学の背景を、公家社会の没落と武家社会の勃興という観点から説明できる。
13. 有職故実や宋学がさかんになった背景を説明できる。
14. 寺社の縁起や高僧の伝記が製作された理由を説明できる。
15. 後醍醐天皇の方針とその背景を説明できる。
16. 幕府を滅亡に導いた勢力について説明できる。
【解答例】
1. 私的貿易が盛んで商人が往来するなど、日本は宋との経済的交流を長い間続けてきており、宋を中心とする東アジア通商圏の中に組み入れられていた。また、僧侶も日宋を往来し、執権の北条時頼・時宗親子が南宋僧の蘭渓道隆・無学祖元に帰依するなど、文化的交流も盛んであった。こうした宋との密接な関係性が、宋を侵略する元への回答に影響を与えたと考えられる。
2. 文永の役において、元・高麗軍は対馬・壱岐を陥落させて、博多湾に上陸した。ドラを合図に集団で行動する元軍に対して、伝統の一騎打ちを挑んだ武士は討死をかさねて、大宰府付近まで撤退した。ところが、夜襲を恐れた元軍は船に戻り、翌朝になると姿を消していた。 文永の役の後、日本は異国警固番役を強化して、石築地を博多湾沿いに構築した。元は南宋を滅ぼして、再び日本征服を目指した。 弘安の役において、元は14万の大軍を率いて九州北部に到達したが、博多湾沿岸への上陸をはばまれているあいだに暴風雨がおこって大損害を受け、撤退した。
3. 高麗の軍事組織である三別抄は国王が元に降伏したあとも、朝鮮南部で抵抗を続けていた。三別抄は鎌倉幕府に援助を求めるが、幕府がこれを拒否したため、1273年に敗北した。そして、三別抄の乱を元が鎮定した翌年に文永の役がおこり、南宋を滅亡させた(1276年)のちに、弘安の役がおこった。二度にわたる元の襲来の失敗は、元に征服された高麗や南宋の人々の抵抗によるところもあった。
4. 異国警固番役に引き続き九州御家人を動員した幕府は、非御家人の武士を動員する権利を朝廷から獲得して、西国一帯に幕府勢力を強めていった。
5. 蒙古襲来を機に、北条一門は九州を統括し、多くの国の守護に任じられた。北条氏の権力は拡大され、なかでも家督をつぐ得宗の勢力が強大になった。それにともなって、得宗の家臣である御内人と御家人の対立が激しくなった。 北条貞時の時代に、内管領の平頼綱が有力御家人の安達泰盛を滅ぼすと、貞時はその頼綱を滅ぼして幕府の全権を握った。 こうして、得宗の勢威のもとで御内人や北条氏一門が幕政を主導する、得宗専制政治が始まった。
6. 農耕生活が始まると集落や聖地からなるグスクが形成され、土地・水などをめぐる争いが起き、その指導者である按司が成長した。争いがすすむに従い、石垣による城が作られるようになった。交易が始まると良港をもつ按司が勢力を拡大し、三山に統合されていった。
7. 古代の続縄文文化から、擦文文化・オホーツク文化を経て、13世紀にはアイヌの文化が生まれた。アイヌは津軽の十三湊を拠点とする安藤氏と交易を行った。
8. 御家人は分割相続によって所領が細分化していくなか、貨幣経済の発展に巻き込まれた。また、蒙古襲来の恩賞が不十分であったため、窮乏していった。この動きにともなって、女性の地位も低下の傾向をみせ始めた。女性に与えられる財産が少なくなり、本人一代限りでその死後は財産を惣領に返す約束付きの相続(一期分)が多くなった。
9. 幕府は永仁の徳政令を出して、御家人の所領の質入れや売買を禁止して、それまでに質入れ、売却した御家人領を無償で取り戻させて、御家人が関係する金銭の訴訟を受けつけなくした。しかし、債権を否定された非御家人や借上は損害を被り、御家人への融資を渋ることになった。その結果、困窮御家人はかえって苦境に立つこととなり、状況を察した幕府は、翌年に徳政令を撤回した。
10. 広い階層を対象とする新しい仏教の必要性に応じて、仏教者が庶民でも実行できる、易行・選択・専修を説いたため。
11. それまで祈禱や学問中心だった旧仏教側も、新仏教の広まりをみて庶民との関わりや、元来の戒律の遵守が重要だと考えたから。
12. 時代の変動を目の当たりにした人々の間に無常観が広がり、観念的な美を追求するものも現れた。また、武士の活躍を描いたものは、字を読めない人びとにも親しまれた。
13. 没落する公家のあいだで、過ぎ去った良き時代への懐古と尊重の気風が高まったから。
14. 民衆に教えを広めるために制作された。
15. 後嵯峨法皇が亡くなったあと、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれて争った。幕府はその争いの調停を行い、その結果、両統が交代で皇位につく両統迭立がとられるようになった。両統迭立にしたがって即位した後醍醐天皇はこの状況をきらって親政を開始して、皇位の安定をはかるために、積極的に天皇の権限強化を推し進めた。
16. 後醍醐天皇の皇子の護良親王や楠木正成らは、悪党などの勢力を結集して蜂起し、幕府軍の指揮官として機内に派遣された有力御家人の足利尊氏も幕府に反旗を翻した。
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