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歴史部|摂関政治と貴族社会

10月25日
読了時間: 6分

重要なポイント


・歴史部で、日本史担当ののぶた先生と世界史担当のうえまつ先生が共同で授業を行った

・平安時代の摂関政治をテーマに、藤原道長・頼通を中心に読み合わせと質疑を行った

・生徒の質問から、公卿の合議、貴族の日記、天皇と戦争へと議論が広がった


議論されたトピック


授業の進め方


のぶた先生とうえまつ先生が、日本史と世界史の視点を交えながら授業を進めた。


・詳細

・のぶた先生:日本史の読み合わせを主導し、生徒が順番に音読する形式で進行した

・うえまつ先生:日本史の視点と世界史の視点を関連付けながら補足説明を行った

・結論

・読み合わせを行い、質問や意見を出し合いながら話題を広げた


摂関政治の概要


生徒たちが順番にテキストを音読し、摂関政治の成立過程や藤原道長・頼通の権力掌握について確認した。


・詳細

・Aさん・Bさん・Cさん・Dさん・Eさんが各段落を音読した

・読み合わせの内容:藤原道長が娘を入内させて外戚関係を築き、約30年にわたり権力を握ったこと、長男の藤原頼通が約50年にわたり摂政・関白を務めたこと、摂関家の成立や中下級貴族との関係、摂政・関白の役割の違い、貴族の日記文化(御堂関白記・小右記など)について説明された

・のぶた先生:「入内(じゅだい)」など重要用語の読み方を適宜補足した

・結論

・摂関政治は藤原道長・頼通の時代に全盛期を迎え、摂関家が朝廷の人事に強い影響力を持った

・摂政は主に幼少の天皇に代わって政務を行い、関白は成人した天皇の政治を補佐する役職である


公卿の合議と摂関政治の実態


Bさんの「公卿たちの意見はどれくらい参考にされたのか」という質問をきっかけに、摂関政治における太政官の機能について議論が展開した。


・詳細

・Bさん:公卿の意見がどの程度政治に反映されたのかを質問した

・のぶた先生:摂関政治を完全な独裁と捉えるのではなく、公卿の合議の働きにも注目する必要があると説明した

・のぶた先生:研究の進展によって摂関政治の捉え方が変化してきたと述べた

・結論

・摂関政治を、摂関の権力と公卿の合議の両面から考えた

・太政官が機能していたという点は受験においても重要なポイントである


具注暦と貴族の日記文化


Gさんの質問をきっかけに、具注暦(ぐちゅうれき)の説明と貴族の日記文化について解説が行われた。


・詳細

・Gさん:「具注暦」という用語について質問した

・のぶた先生:具注暦が日付や吉凶などの暦注を記した暦であり、貴族がその余白を日記に利用したことを説明した。国宝の『御堂関白記』を画像で紹介し、道長の筆跡の読みにくさについて感想を述べた

・のぶた先生:道長を「ずぼら」と評し、その記録の仕方にも触れた。『小右記』にも言及し、貴族の日記の記録方法は一様ではないと指摘した

・結論

・具注暦は日付や吉凶などを記した暦で、日記を書く際には日付が既に記されているため利用しやすかった

・貴族の日記はすべてが具注暦に書かれたわけではなく、形式は様々であった


明治の太政官と平安の太政官の違い


Cさんの質問をきっかけに、明治期と平安期の太政官の違いについて議論が行われた。


・詳細

・Cさん:明治の太政官と平安の太政官の違いを質問した

・のぶた先生:明治政府が復古を掲げて古代の制度名を用いた一方で、政府の仕組みは当時の状況に合わせてつくられたと説明した

・うえまつ先生:「何が同じなのか」という問い方を示し、名称の共通性と制度内容の違いを分けて考える視点を補足した

・結論

・明治の太政官は古代の名称を用いているが、組織や運営の仕組みは異なっていた

・明治政府は古典から名称を借用しつつ、近代国家の新しい制度を構築した


具注暦への記録方法と誤記・修正の方法


Hさんの「なぜ具注暦の余白に日記を書いたのか」という質問に続き、Bさんが「間違えた時の修正方法」について質問した。


・詳細

・Hさん:普通の記録帳に書けばよいのではないかと質問した

・のぶた先生:具注暦には日付が既に記されているため書き込みやすいと説明し、『小右記』にも言及して、日記の記録方法は一様ではないことに触れた

・Bさん:筆と墨で書いていた時代に間違えた場合の修正方法を質問した

・のぶた先生:筆と墨で記録した文字をどう訂正するかという問題を取り上げ、書き直しや塗りつぶしなどの方法に触れた。中国の『天聖令』の写本にも話題を広げ、書き写す過程で生じる問題に言及した

・結論

・文字の修正方法も話題となり、書き直しや塗りつぶしなどが紹介された

・具注暦への記録には日付があらかじめ記されている利点があり、貴族の日記の記録方法には違いがあった


藤原伊周の左遷事件(長徳の変)


Aさんの質問をきっかけに、伊周・隆家兄弟が関与した花山法皇への襲撃事件(長徳の変)について解説が行われた。


・詳細

・のぶた先生:伊周・隆家兄弟が関わった花山法皇への襲撃は恋人をめぐる誤解が発端だったという話と、伊周が大宰府への左遷を命じられ、すぐには赴任しなかった経緯を紹介した

・うえまつ先生:伊周は996年に大宰権帥へ左遷され、翌年召還されたと補足した。弟の隆家も出雲権守へ左遷されたことを確認した

・のぶた先生:天皇・法皇に危害が及ぶ事件を非常に重大なものと捉え、壇ノ浦や禁門の変も比較に挙げた

・結論

・花山法皇に矢が向けられた事件の重大さが話題となった

・伊周・隆家への処分と、伊周が赴任を命じられた後の行動が話題となった


天皇が戦場に出なくなった理由


Hさんの「外国の皇帝は戦場に赴くのに、なぜ日本の天皇は武士に任せるのか」という質問をきっかけに議論が展開した。


・詳細

・Hさん:外国の皇帝が戦場に赴くのに対し、日本の天皇が直接戦わない理由を質問した

・のぶた先生:ヤマトタケルの伝承や斉明天皇の例を挙げ、古代の天皇や皇族と戦いの関係について説明した。そのうえで、後の時代に天皇自身が戦場に赴くことが一般的でなくなった背景について説明した。その背景として、穢れ観念との関係も考えられると述べた

・のぶた先生:天皇の出陣や移動の少なさを、世界の君主と比較した際の特徴として指摘した

・うえまつ先生:中国でも皇帝が自ら出陣して異民族に捕らえられた例があると補足した

・結論

・天皇の出陣のあり方が変化した理由をめぐり、穢れ観念との関係が一つの可能性として挙げられた

・日本の天皇と外国の君主を比較し、君主と戦争の関わりについて議論した


画像:『御堂関白御記別記』写本の表紙(書写年代不明、京都大学附属図書館所蔵・平松文庫)。出典:https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006977(sRGBプロファイル付与。画素変更・再圧縮なし)

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