歴史部通信:7月11日号
- 順大 古川
- 7月11日
- 読了時間: 3分
更新日:7月13日
【次週(7月13日~7月16日)の予定:世界史】
月:4巻169p~
火:3巻139p~
水:1巻197p~
木:2巻186p~
※次のお休みは、7月27日(月)~7月30日(木)です※
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【質問調査結果】
応仁の乱の時の「足軽」って、どんな人たち?
呉座勇一『応仁の乱』によると、「足軽は、甲冑などを着けない軽装の歩兵」であって、「足軽大将」として有名な骨皮道賢のことを「裏社会の住人」であったと推測しています。また、「慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽の最大の供給源であった」しています。
応仁の乱が終わったときに、奈良に疎開していた公家たちが京都に戻るのですが、「足軽に道中の護衛を頼んだところ、途中で足軽が追いはぎに変じ、身ぐるみはがされたという哀れな公家もいたという」(『応仁の乱』)といったエピソードからも、足軽がどういった人たちかがうかがえますね。
Q:応仁の乱で大内政弘が大軍を伴って上京して西軍についたのは、日明貿易における細川氏との対抗が関係あるのか?
大内政弘は、寛正六年(一四六五)以降、「伊予の河野氏を援けて細川氏との対立を深め、細川氏によって大内氏追討の幕命が発せられた」(国史大辞典)のは、呉座勇一『応仁の乱』に「勝元と正弘は瀬戸内海の制海権をめぐって競合関係にあった」とあるように、日明貿易における対抗関係のようです。
そして、文正元年(一四六六)の政変につながる出来事である、伊勢貞親の申請によって斯波氏の家督が斯波義廉から斯波義敏(←反山名)に移されたときに、ついでに反細川の大内政弘を赦免しています。これは、呉座勇一『応仁の乱』によると、反山名と反細川勢力を糾合するためだったそうです。
ただ、伊勢貞親はこの策謀に失敗して、文正の政変で失脚します。
そして大内政弘は、東軍の細川に対抗するために、応仁の乱の時は西軍として上京しました。
歴史部のときに博士論文を紹介してもらった、岡本真さんが、今は東大史料編纂所の准教授になっていて、『戦国期日本の対明関係 : 遣明船と大名・禅僧・商人』という学術書も出しているようなので、今度図書館で見ておきます。

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