世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの「青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。
(前回の記事「【ベトナム戦争②】なぜ始まったか?」はこちら)
動画版:「【ベトナム戦争③】ついに決戦!屈しないベトナム」
中島:
歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。
青木:
お願いします。
中島:
ベトナム戦争をずっと紐解いていっておりますが、先生の書斎にちゃんと開高健さんの「ベトナム戦記」というのがあって、前回私が「輝ける闇」という話をしたんですけど、VTRのあとに、もしかしたら開高健さんってヘミングウェイが大好きで、ヘミングウェイも従軍して作品を書いたりだとかっていう、釣りもお好きだしという話をした、僕もヘミングウェイが大好きで、僕のひげはヘミングウェイ。
青木:
ちょっと意識してますね。
中島:
すごい人ですよね。共通点がいっぱいありますよね。
話は横道に逸れましたけれども、ベトナム戦争、アメリカがどんどん泥沼に入っていって、どうやって終結するのか。
青木:
今、泥沼とおっしゃったけど、戦争が始まった当初、1965年当初、誰も泥沼になるとは思っていなかったんです。だってかたやベトナムって水牛で田んぼを耕す国でしょ。かたやアメリカってお月様にロケットを撃ち込もうとする国なんですよ。
世界中がなんと思ったかというと、この戦争は1か月でたぶん終わるだろうと。一応対決構造を確認しておくと、南部を中心に南ベトナムという国ができていますよね。これはアメリカが応援する。ハノイを中心に北ベトナム、ホーチミンたちがいるわけですね。そのホーチミンたちの支援のもとに南部のジャングル地帯に解放戦線がいる。
アメリカはどうしたかというと、南部では解放戦線と地上戦闘をやるわけですね、もちろん爆弾も落としたりします。一方、ホーチミンがいる北ベトナムに対して爆撃しかしなかったんです。地上軍を
中島:
送り込まなかった?
青木:
うん。なぜかというと、いろいろ理由があるけども、被害が増えるだろうと。そしてもうひとつは、もしも地上軍を北ベトナムに派遣した場合、中越相互援助協定という北ベトナムと中国との軍事同盟が発行しちゃうんです。
中島:
なるほど、中国が出てくることを恐れた?
青木:
中国の地上軍が動員される可能性が出てくる。アメリカも確かに世界最強の国だけど、朝鮮戦争で中国から痛い目に遭わされているので、できれば地上戦闘は中国としたくない。ということで北ベトナムに対しては爆撃だけだったんです。世界中が思ったのは爆撃だけでたぶん北ベトナムは屈服するだろうと。
中島:
どんどん爆弾を落としていけば屈服するだろうというふうに思っていたわけですね。
青木:
ちなみに当時の北ベトナムには飛んでくるアメリカの飛行機、それを迎撃するような空軍力はほとんどなかったんです。飛んでくる飛行機に対してベトナムの人たちがやれることは2つしかなかった。1つは地上で大砲を撃つ。もう1つは防空壕を作る。
戦争が始まってから1か月間の間に、北ベトナムは当時2000万ぐらい人口がいるんですけども、人口の3倍の6000万の防空壕を作るんです。それでしか勝てない。
学校も病院も工場も全部地下に潜って、ベトナムの人たちがなんと言っていたかというと、「我々はアリにならなければ勝てなかった」と。武器をしっかり作り、弾薬をしっかり作って、解放戦線に補給を続けるわけですね。
中島:
今確かベトナムに行けばそういうのが見学できるんですね。
青木:
ありますね。昔ホーチミンルートという輸送ルートがあって、これが解放戦線にとっては生命線だったわけです。当然それもアメリカ軍の攻撃にさらされるわけですよ。
ちなみにベトナム戦争全体でアメリカがどれぐらい爆弾を落としたかってご存知ですか?ベトナム戦争が終わった直後の数字、研究の数字なんですけども、北ベトナムには255万トン。南部ベトナムに500万トン。
中島:
それってそのときまでの戦争の中でも一番すごい量じゃないですか?
青木:
すさまじいです。トータルで755万トンでしょ。日本がアメリカ軍に爆撃されるじゃないですか。第二次世界大戦中、アメリカが日本にどれぐらい爆弾を落としたかというと16万トンなんです。その45倍。
中島:
これは本当にベトナムの人たちにとっては大変な。
青木:
大変な戦いだったんです。だって16万トンの爆弾で日本の1万人以上の街って全部焼け野原になったでしょ。壊滅しましたよね、日本って。その40倍以上の爆弾をベトナムは落とされているわけですよね。それでも彼らは屈しなかったんです。
65年に戦争が始まったけども、66年、戦争は終わらない。67年、戦争は終わらない。アメリカ国民の間に、そして軍部の間に「なかなかこの戦争勝てないな」という雰囲気が漂っていくわけ。その「なかなかこの戦争は勝てないな」という気持ちが明らかに間違いだったというのが、1968年1月30日以降、1週間でわかるわけ。なにかというと、テト攻勢というのが始まって、テトというのはベトナムの旧正月のことです。その旧正月を期して北ベトナム軍と、北ベトナムに支援されていた解放戦線が一斉に総反撃に出る。
特に南ベトナム共和国の首都だったサイゴン。アメリカの拠点であったサイゴン。ここに解放戦線がブワーっと攻め込んでくる。猛烈な市街戦が行われて、サイゴンの西半分、これが市街戦によってガレキの山になっちゃう。
そして東部にアメリカ大使館があったんですけども、アメリカ大使館の前の通りのマンホールの蓋がパカッと開いて、そこから解放戦線の決死隊が18人、アメリカの大使館に突入するんです。数時間にわたってアメリカ大使館を占拠する。
そこからどうしたかというと、この旗を振るわけですよ。これは解放戦線の旗です。本物です。ベトナム戦争が終わった直後に僕の友達がベトナムに旅行して買ってきたんですよね。この旗を振ったんです。上半分の赤がベトナム人の血。要するにベトナム民族を表す。下半分の青がメコン川の水の色です。この旗を振ったわけです。
中島:
これは本当にアメリカにとっては「うわ」っと。
青木:
勝てない戦いじゃなくて負けてるんじゃないかと。そうなるとアメリカは早いんです。確かにそうだと国民がみんな思って、じゃあもうやめてしまおうと、そういう声がブワーッと高まっていくんです。
中島:
今度はやめてしまおうというふうに世論が。
青木:
動き始めるわけ。さらにはベトナムで戦うことにどれだけの意味があるのか。戦争そのものの正当性というか、それを疑うような声もだんだん立ち上がってくるわけですね。
中島:
このあたりというのはVTRみたいなのでニュースでどんどん映像が流れるというのと、ひとつはウッドストックみたいな運動も盛り上がってということですよね。
青木:
それこそアメリカの音楽アーティスト、先頭に立って反戦をやってましたもんね。ジョン・レノンもそうだし、サイモンとガーファンクルもそうだったですね。
中島:
どんどんそういうふうな運動が高まって、ベトナムから帰ってきた帰還兵たちは、自分たちは大変な思いをしているから英雄になってると思ったら、国では「え?そんな話になっちゃってるの?」という。
青木:
本当は名誉ある帰還兵が人殺しと言われてしまうわけです「マーダー」って。これは彼らにとって大きな傷になりますね。
特にさっきの解放戦線の決死隊が南ベトナムのアメリカ大使館に突入した。結局その18人の決死隊ってみんな射殺されるわけですよ。
中島:
それはアメリカに補えられるということですか?
青木:
いや、みんな殺されちゃうんです、戦闘の中で。中でも印象的な写真があって、自分たちが撃ち殺した解放戦線の兵士の遺体が横たわってるでしょ、それをじっと見つめているアメリカの兵士の写真があるんです。これは僕の推測が半分以上あるけども、「お前らすごいな」と。だって絶対死ぬじゃないですか。だから、ベトナムの人たちというのはこの戦争のために命を投げ出しても良いと思ってる。じゃあアメリカ人はベトナムのために死ねるかと、死ねないんですよね。死んでも良いと思っている人間と、命が惜しいという人間の戦いってもう勝敗はわかっているわけですよ。これにたぶん多くのアメリカ人たちが気がついた。
中島:
つまりマンホールからパッと出て18人で占拠しても、占拠したとしてもそのあとの後方支援はないから、絶対にどこかで自分たちはやられるのというのがわかっている18人が占拠して旗を振ったということなんですね。
青木:
それでも戦う彼ら。一方で命が惜しい我々。もう戦い、戦争は勝負は決まっているということですね。
中島:
最後どんなふうに終わるのかというのをもう1回、もしくはもう2回になるかもしれませんけれども、まだ1968年ですから、75年までですもんね。
青木:
はい。でもここから先はわりと早いです。
中島:
わかりました。
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