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大正時代の雑誌『白樺』の名前の由来は?:歴史部生徒質問

【生徒質問】

大正時代の雑誌『白樺』の名前の由来は?



志賀直哉の弟子の阿川弘之が書いた、志賀直哉の評伝に『志賀直哉』

という本があるんですが、

あ、志賀直哉は白樺派の代表的作家で、『暗夜行路』とか『小僧の神様』とかを書いた人です。

その本に、正親町公和(おおぎまちきんかず)が「白樺」にしたがったとあるようです。

今、裏を取るために書店に注文しているので、書籍の到着まで少し待っててください。


(追記)

この本は、「評論は一切せず、作品と資料と踏査見聞とから、88年におよぶ生涯の詳細を調べ尽し、「事実」のみを積み重ねる。直哉を師と仰ぎ親炙した末弟子が、文字で描きあげた亡き先生の肖像画」という本です。 この本の上巻の160ページに、以下のようにあります。


思考力を鍛える日本史


……戦後高見順が直接直哉に訊ねたことがあった。

 いい名前なんですが、あれはどういうところからおつけになったのですかと質問されて、「あれはね、 その頃、 よく日光とか赤城とか、ああいう高山へ行って、白樺という木が好きだった。それで僕ら『白樺』とつけたんだよ。何にしようって相談して、『麦』だとか『草』だとか、 いろんな候補があってね、正親町(おおぎまち)が『白樺』でなきゃやらないと言うんで『白樺』に決ったんだ。 (もっとも、武者小路の記憶はちがっていて)そうじゃない、白と樺との色の配合が一面白いからやったと、 こう言うんだ。武者は固く信じてるね。しかしそんなことは絶対ないんだよ」

 そう直哉は答えているけれど、此の「絶対」が又、必ずしも絶対でないのであって、その時(昭和三十年)、昔の座談会での皆の発言内容は、あらかた直哉の頭から消えていたらしい。


白樺・創刊号
白樺・創刊号

昭和十年、改造社発行の「文藝」が「白樺座談会」なるもを企画し、志賀直哉、中戸川

吉二、有島生馬、武者小路実篤、木下検二、正親町公和、長与善郎、柳宗悦、里見弴と、白

樺同勢揃いに近い顔ぶれの出席を得て、その談話記録を五月号に掲載した。これを見ると、誌名に関し、はっきり樹木よりの命名説を主張しているのは直哉一人、柳宗悦、武者小路実篤、有島生馬、みな色の取り合せ説、編集者が取りついで伝える園池公致の記憶も後者である。正親町公和は、上高地や赤城から白樺の皮を剥いで書いた仲間の手紙をよくもらった、山が好きで、雑誌の名前はどうしても山の植物からつけたいと思っていた、それで白樺に決ったんじゃなかったかと言う一方、大分議論もあったが、何だか色を合せたことは覚えがあると、やや曖昧な折衷説を唱えている。そのあと直哉が、

「どっちとか決めてしまふとエ合が悪いかも知れないね。だから二説あるといふことにして

おくといゝ」

 と発言し、これが此の問題について一応結論のようなかたちになった。要するに、創刊から二十五年目、廃刊から十二年目の昭和十年には、「白樺」命名の正確な由来が、もはやよく分らなかったのである。


というわけで、『白樺』を相関した人たちも忘れちゃったみたいです。

なんじゃそりゃ!!!!!!!!!!!!








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