歴史部:貞観文化――最澄・空海と密教芸術
今回は平安時代前期の貞観文化を取り上げ、漢文学・教育、最澄と空海、密教、神仏習合、そして建築・彫刻・絵画・書道までを、該当箇所を音読しながら学びました。
貞観文化と「文章経国」
のぶた先生は、平安時代のおよそ四百年を前期・中期・院政期に分けて見通しをつけ、前期の貞観文化を紹介しました。嵯峨天皇から清和天皇のころにかけて、貴族社会では漢文学・書道・仏教が重要な教養となります。
Aさんが「文章経国」の思想と、宮廷で漢文学や書道が重視されたことを読み上げました。天皇の命による漢詩集として『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』が編まれ、空海は『文鏡秘府論』で漢文作成の理論を説きました。
大学寮では、儒教を学ぶ明経道、歴史・文学を学ぶ紀伝道などが重視されました。藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などの大学別曹にも触れ、貴族社会の学問と教育について考えました。空海が設けた綜芸種智院については、仏教・儒教・道教をあわせて学ばせようとした理念、民衆の入学を期待していたこと、実際の運営には不明な点も多いことを確認しました。
Bさんから大学別曹の名称の由来について質問があり、のぶた先生とうえまつ先生は、「学を進める」ことに関わる普通名詞的な意味や、中国の古典との関係の可能性を考察しました。
最澄・空海と平安仏教
CさんとDさんが最澄・空海に関する箇所を読み上げました。桓武天皇は奈良の大寺院を平安京へ移さず、最澄と空海による新たな仏教を支持しました。
最澄は比叡山に延暦寺を開き、法華経を重視する天台宗を広めました。大乗戒壇の設立を求め、最澄の死後に公認されます。空海は入唐して密教を学び、高野山に金剛峯寺を建て、嵯峨天皇から与えられた東寺を密教の根本道場としました。
天台宗にも円仁・円珍によって密教が取り入れられ、真言密教(東密)と天台宗内の密教(台密)が並立します。Aさんは、同じ天台宗につながる延暦寺と園城寺がなぜ対立したのかを質問しました。のぶた先生は、教団内の思想・人脈・権力をめぐる対立が分裂や武力衝突につながったことを説明しました。
密教・神仏習合をどう理解するか
密教では、身ぶり・言葉・心を用いる修行が重視され、真言を唱えるなどの実践が行われます。天皇・貴族の現世利益への願いとも結びつき、平安時代の仏教の重要な位置を占めました。
AさんとBさんは、神仏習合と神宮寺について読み上げました。仏教が広がるなかで、神社の境内や近くに寺院が置かれる例が生まれ、天台・真言宗の山岳仏教的な性格は山岳信仰とも結びつきました。Dさんの「神宮寺は神社の中でどのように建てられていたのか」という質問に対し、のぶた先生は宇佐弥勒寺を例に、神社の一角に大きな寺院が設けられる場合も、一棟程度の場合もあったと説明しました。
Fさんは「呪力」という語について質問しました。のぶた先生は、病気を治す、雨を願うなど、願いをかなえる霊的な力という文脈で理解できると補足しました。
密教芸術
密教の神秘性は、建築・彫刻・絵画・書道にも表れました。Hさんは、山岳に建てられた寺院では、対称的な伽藍配置に一律に従わない構成が見られることを読み上げました。室生寺金堂・五重塔では、檜皮葺きと自然に調和する姿が注目されます。
Dさんは、一木造や翻波式の衣文表現に触れました。Fさんは如意輪観音像(観心寺)、薬師如来像(神護寺・元興寺)、不動明王像(神護寺)などを確認し、神仏習合を反映する神像彫刻にも目を向けました。Gさんは両界曼荼羅、Bさんは嵯峨天皇・空海・橘逸勢を「三筆」と呼ぶ書道の展開を読み上げました。
Fさんから檜皮葺きについて質問があり、のぶた先生は檜の皮を重ねて屋根を葺く工法であること、板葺き・銅葺き・藁葺きなど他の工法もあることを説明しました。Gさんの「仏像の手や顔が複数あるのはなぜか」という質問では、仏像の形が経典・伝承を視覚化したものであり、たとえば千手観音の多数の手には多くの人を救うという意味が込められていることを確認しました。
最澄と空海の関係、そして風信帖
Fさんは空海と最澄の関係、空海が最澄へ送った手紙として知られる国宝《風信帖》について質問しました。二人は遣唐使として入唐し、帰国後には密教の受容や弟子をめぐる関係のなかで距離を置くようになります。《風信帖》は、当時の二人の関係を考えるうえで重要な史料です。
今回の授業では、貞観文化を、漢文学・教育の発展だけでなく、天台宗・真言宗、神仏習合、密教芸術が結びつく文化として捉え直しました。問いを重ねながら、建物・仏像・書・手紙といった具体的な史料や作品から、平安時代前期の文化を考えました。
空海筆《風信帖》/東寺所蔵(Wikimedia Commons, Public Domain)

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