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豊臣兄弟登場人物動向チェック 第24回「軍師官兵衛!」(天正七年十月十六日有岡城落城・天正八年正月十七日三木城開城)



毛利輝元は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):28歳


◇天正7(1579)年◇

6月ごろ、宇喜多直家に裏切られます。(『信長公記』とかだと9月とか10月)

9月、伯耆南条氏に裏切られます


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

6月、鳥取城の山名豊国に裏切られます

ドラマの基本に則って、丁寧にフラグを回収しております。


☆参考文献:光成準治『毛利輝元』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4uFfzyz)


宇喜多直家は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):52歳


◇天正7(1579)年◇

9月、秀吉が、信長に宇喜多直家の赦免を願いますが、拒否られます。光成準治『毛利輝元』によると、6月頃には、直家は毛利方を離反していたようです。

10月7日、織田信長に謝罪します。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

このころから、天正10(1582)年まで、直家は毛利勢と攻防をくりひろげます。


☆参考文献:渡邊大門『宇喜多直家・秀家』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4uybSKQ)


小早川隆景は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):48歳


◇天正7(1579)年◇

12月、宇喜多方の四畝城を攻略します。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

6月、宇喜多方の岩屋城を攻略します。

8月、伊賀氏が宇喜多氏から離反してくれます。

10月、宇喜多方の忍山城を攻略します。


☆参考文献:光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4e55AgU)


吉川元春は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):51歳


◇天正7(1579)年◇

6月ごろ、宇喜多直家が毛利氏を裏切ります。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

吉川元春のこのころの動きは、あまり分かりませんでした。


☆参考文献:

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)

『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/45eYv8O)


安国寺恵瓊は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):43歳?


◇天正7(1579)年◇

6月ごろ?、宇喜多直家が毛利方から離反します。

9月、恵瓊は美作の高田城で、小早川隆景と吉川元春の連絡役をつとめます。

冬、恵瓊は東福寺退耕庵主となります。

この年、恵瓊は備後安国寺の本堂を再建します。

おおっ!暗黒JKならぬ、安国JKや。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

閏3月7日、本願寺光佐が信長と講和します。

天正8年から9年の、恵瓊の動きは分かりませんでした。


☆参考文献:

河合正治『安国寺恵瓊』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4emcHAe)


小寺(→黒田)官兵衛は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):35歳


◇天正7(1579)年◇

半兵衛が没したのは6月13日です。

ドラマでは、牢屋の中の官兵衛は、いつも半兵衛のことばかり考えていました。

9月2日、荒木村重が有岡城から逃走します。

10月16日、有岡城が落城します。このとき、官兵衛が救出されます。

ドラマでは左膝を痛めていました。『黒田家譜』では、膝を痛め、頭髪が抜けて禿てしまったとあります。俳優・倉悠貴さんへの温情で、後者はスルーされたのでしょうか。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

ドラマでもあった、小寺から黒田への改姓ですが、小和田哲男『黒田如水』によると「天正七年(一五七九)十月末に姫路にもどってから、翌八年七月二十四日までの間に改姓したことがわかる」そうです。


☆参考文献:小和田哲男『黒田如水』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/43EXDc8)


別所長治は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):26歳?


◇天正7(1579)年◇

属城が次々と陥落して、だんだん形勢が不利になっていきます。というか、追いつめられていきます。


◇天正8(1580)年◇

正月15日、秀吉方に残った叔父の重棟から、切腹・開城の勧告を受け、長治はそれを呑みます。

ドラマだと、秀吉軍団が勢揃いで勧告しに来ていましたね。もちろん、重棟も。

正月17日、長治は切腹し、三木城は落城します。首級は信長にのもとへ送られました。


☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


別所賀相(よしちか)は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):?歳


◇天正7(1579)年◇

あわてふためいて後悔しているころです。


◇天正8(1580)年◇

正月15日、秀吉方に残った重棟から、切腹・開城の勧告を受け、長治はそれを呑みます。

ドラマだと、秀吉軍団が勢揃いで勧告しに来ていましたね。もちろん、重棟も。

正月17日、長治は切腹し、三木城は落城します。

賀相は、自分の首が信長の目に晒されることを恥として、城に火をかけようとして家臣に殺されたと言われています。ドラマでも往生際が悪かったですよね。

なお、賀相の首は安土に送られました。ガッツリと信長の目に晒されたことでしょう。


☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


別所重棟は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):?歳


◇天正7(1579)年◇

安堵して自分の判断をほめているころです。


◇天正8(1580)年◇

正月15日、長治たちに、切腹・開城を勧告します。長治はそれを呑みます。

ドラマだと、重棟だけでなく、秀吉軍団勢揃いで勧告しに行ってましたね。

正月17日、長治は切腹し、三木城は落城します。


ここから、天正13年まで、動向が分かりませんでした。


☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


高山右近は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):28歳


◇天正7(1579)年◇

荒木村重に人質を取られていますが、右近はがんばって有岡城攻めに加わります。

9月2日、荒木村重が有岡城から尼崎城に逃走します。

9月12日、織田信忠が尼崎城に兵を進めます。右近は七松(尼崎市)の砦の定番に任じられます。

10月16日、有岡城が落城します。人質として取られていた父子と妹が救出されます。


◇天正8(1580)年◇

家臣ら1500人を提供して、安土のセミナリオ建設に力を尽くします。

閏3月、安土に屋敷地を賜ります。

高槻の教会も栄え、11月には信者は1万4000人となり、さらに7000人の洗礼志願者がいたといいます。


☆参考文献:

中西裕樹『戦国摂津の下剋上 高山右近と中川清秀』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4vutvwC)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)

海老沢有道『高山右近』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4eVj3rR)


中川清秀は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):38歳


◇天正6(1578)年◇

10月21日、信長のもとに「村重逆心」の報が入ります。

村重は信長のもとに弁明に向かいますが、茨木城の清秀が村重を止め、謀叛を進めたと言われています(『隆佐記』)。

11月24日、清秀は信長に降参します。


◇天正7(1579)年◇

有岡城攻めに加わって、原田の砦と中島城を受け持ちます。

9月2日、荒木村重が有岡城から尼崎城に逃走します。

9月12日、織田信忠が尼崎城に兵を進めます。清秀も七松(尼崎市)の砦の定番に任じられます。

10月16日、有岡城が落城します。


◇天正8(1580)年◇

尼崎の荒木残党の相手をしています。


☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)



足利義昭は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):43歳


◇天正7(1579)年◇

10月7日、宇喜多直家が織田信長に謝罪します。

10月16日、有岡城が落城します。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

閏3月7日、本願寺が信長と講和します。

義昭は、教如を支援するようにと毛利氏に命じますが、拒否られます。


参考文献:山田康弘『足利義輝・義昭』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4a91kue)


明智光秀は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):53歳?


◇天正7(1579)年◇

正月7日、坂本城で茶会を開きます。

2月28日、丹波亀山に出陣します。

5月5日、丹波氷上山城を攻めます。

6月2日、八上城を降します。

7月19日、丹波宇津城と鬼ヶ城を攻めます。

7月24日、正親町天皇より、丹波山国荘の給料を回復した功として、鎧・馬・香袋を賜ります。

8月9日、丹波黒井城を降します。

10月16日、有岡城が落城します。

10月24日、丹波と丹後を平定したことを、安土城で信長に報告します。

11月22日、誠仁親王の二条新御所移住の奉行をつとめます。


◇天正8(1580)年◇

正月9日、坂本城で茶会を開きます。

正月17日、秀吉が三木城を落とします。

閏3月7日、本願寺が信長と講和します。

閏3月、坂本城を修復します。

4月、信長に命じられて、備中の秀吉の援軍に向かいます。

8月2日、丹波一国を与えられます。

8月15日、佐久間信盛親子が、信長より追放されます。

9月26日、大和国の寺社と本所以下の国衆に指出検地を命じます。

10月6日、御料所である丹波山国荘の貢租を献上します。

11月7日、筒井順慶が、信長より大和国を与えられます。



参考文献:小和田哲男『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4v28ad1)

高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館)(https://amzn.to/3RI7gEa)


丹羽長秀は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):45歳


◇天正7(1579)年◇

4月23日、丹生浦の傍示について命を下しています。

11月22日、誠仁親王の二条新御所移住の奉行をつとめます。


◇天正8(1580)年◇

この年の動向は、分かりませんでした。


参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


細川藤孝は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):46歳


◇天正7(1579)年◇

11月22日、誠仁親王の二条新御所移住の奉行をつとめます。


◇天正8(1580)年◇

3月18日、従四位下侍従となったといいます。

8月、丹後一国の支配を委ねられます。入国して、八幡山城に入ります。

8月、従属を拒む国侍の吉原一族を誅戮します。

9月2日、安土に赴きます。


☆参考文献:

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


織田信忠は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):23歳


◇天正7(1579)年◇

4月、播磨に行って、三木城を囲みます。

4月21日、合戦で活躍します。その後、摂津に戻ります。

4月29日、古池田に滞陣していた信長に、播磨の様子を報告します。岐阜に帰ります。

7月19日、信長の命で、馬廻の井戸将元を殺します。

8月20日、有岡城攻めに出陣します。そのまま、攻囲陣に留まります。

12月、荒木一族などを虐殺します。


◇天正8(1580)年◇

この年の動向は、分かりませんでした。



参考文献:

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)

柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dP8FBp)


織田信孝は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):22歳


◇天正7(1579)年◇

だいたい信忠の指揮下で働いています。


◇天正8(1580)年◇

6月29日、上京したときに、禁中より、楮箋を賜ります。

7月20日、筒井順慶の猶子になるとの噂が立ちますが、噂は風化します。

7月28日、妙満寺の陣所にて、吉田兼和と水無瀬親具の訪問を受けます。

12月3日、上京したときに、禁中より、薫物を賜ります。



参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


織田信澄は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):22歳


◇天正7(1579)年◇

5月27日、安土宗論のときに、警備を担当します。


◇天正8(1580)年◇

8月、本願寺退去のときに、大坂に行きます。以後、大坂に常駐します。



参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)



与一郎は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):?歳


史実ベースでは秀長の実子(慈雲院(慶)との間の子)です(『羽柴秀吉とその一族』)。まだ子供なので、動向は分かっていません。


参考文献:黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)(https://amzn.to/4wA9Qfn)


豪姫は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):7歳


さすがに、まだ正確な動向は分からないようです。


参考文献:岩沢愿彦『前田利家(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dOONOT)


藤堂高虎は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):25歳


このころの動向は不明瞭です。基本的には秀長のもとでがんばっていたと考えられています。


◇天正7(1579)年◇

三木城攻めのとき、松井与左衛門を討ち取ったといいます。


◇天正8(1580)年◇

正月、播磨にいたようです。

三木城攻めのとき、賀古六郎右衛門を討ち取って、名馬「賀古黒」を得たといいます。


☆参考文献:

諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4dAxyRd)

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)

吉川弘文館『戦国武将合戦事典』(https://amzn.to/45eYv8O)


石田三成は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):21歳


ドラマのように、秀吉の長浜城時代に出仕します。

史料に初登場するのは天正11(1583)年なので、正確な出仕年代は不明です。

このころの動向はわかりません。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


平野長泰は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):22歳


ドラマでは、天正5(1577)年に秀吉に出仕しますが、『戦国人名辞典』によると、実際の出仕は天正7(1579)年のようです。


☆参考文献:

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)


片桐且元は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):25歳


ドラマのように、秀吉の長浜城時代に出仕します。

辞書で言及されているのは、賤ケ岳の戦いからなので、正確な出仕年代は不明です。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


加藤清正は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):19歳


すでに小姓として、秀吉に仕えています。

天正元(1573)年ごろには、長浜のあたりに170石を与えられていました。

まだ動向は不明です。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


福島正則は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):20歳


幼少のころより、秀吉に仕えていました。

まだ動向は不明です。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


筒井順慶は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):32歳


◇天正7(1579)年◇

4月10日、播磨に出陣します。丹羽長秀もいっしょです。

8月1日、筒井城に多聞山城の石が運び込まれます。

10月15日、有岡城攻めの戦闘で、家臣がけっこう討ち死にします。


◇天正8(1580)年◇

3月28日、「ウツボ屋の落ち葉ト云う茶壺」を金七枚で買い取ります。

閏3月17日、大和国の諸寺の梵鐘を徴発して、鉄砲をつくります。

8月3日、大和国中の諸城の破却が決まります。

8月17日、筒井城も破却して、郡山城だけを残します。

8月20日、大和国中の城の破却がだいたい終わり、順慶に郡山城が下されます。

9月26日、信長より、大和国の指出検地を命じられます。

10月23日、指出検地がだいたい終わります。

10月28日、戒重、岡、大仏供、高田、吉備氏らを処刑します。

11月7日、郡山城入城と国中一円支配安堵の信長朱印状を渡されます。

11月12日、郡山城に入ります。

11月24日、郡山辰巳父子を自害させます。

12月2日、明智光秀が坂本城で開いた茶会に、津田宗及といっしょに参加します。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

金松誠『筒井順慶』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4tTdT40)


荒木村重は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):45歳


◇天正6(1578)年◇

10月21日、「村重逆心」の噂が信長の耳に入ります。村重は、糾問に来た明智光秀たちに弁明します。

ドラマだと、村重が安土城に呼ばれて、安土城で信長に直接弁明していました。

高山右近や中川清秀のところで書いたように、荒井家中で謀叛するかどうかが紛糾しますが、結局村重は謀叛を決意します。

11月3日、光秀や秀吉の説得を突っぱねます。

11月10日、有岡城が包囲されます。

11月、高山右近も中川清秀も信長に降伏します。

オマエラ、(ドラマでは)安国寺恵瓊を連れてきておいて、それかい!

12月8日、織田軍の攻撃を撃退します。


◇天正7(1579)年◇

正月9日、武田勝頼が毛利氏に対して、信長軍を挟撃して有岡城を救援することを提案します。まあ、勝頼も輝元も動かないんですけどね。

5月27日、毛利氏に救援を催促します。

6月4日、毛利氏にまた救援を催促します。

ドラマと同じで、ずっと毛利軍の救援を待ちますが、あいつら動きやがりません。そのくせ、ドラマでは村重以外の荒木一族が皆殺しにあったあとになって黒幕ヅラしやがります

9月2日、家族も家臣も置き去りにして有岡城を脱出して、尼崎城に移ります。

近年の研究では、毛利と連携するための強行と説明されますが、ドラマでは死の恐怖にとらわれて逃げたという、旧来の評価をベースとした演出でした。このあと、11月の村重の動きを見た私的な感想だと、やっぱ逃げたんじゃないかなあと思うんですが、どうでしょうね。

10月15日、有岡城に取り残された家臣たちが反乱を起こします。

11月19日、滝川一益の攻撃を受けたあと、有岡城は開城します。村重は、村重の降伏と尼崎城・花隈城開城と引き換えに家族と家臣の命は助けるという、信長からの交渉をつっぱねます。

12月13日~16日、荒木一族37人が京都の六条河原で斬殺され、家臣たち500人以上が尼崎の郊外で焼殺されます。

村重は、もうしばらく尼崎城で抵抗します。


◇天正8(1580)年◇

3月、船で毛利氏のもとまで逃げます。またしても、一緒に抵抗していた親族は花隈城に置き去りです。

7月、花隈城が落城します。ちなみに、親族の荒木元清という人が、最後まで戦い続けていました。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dP8FBp)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


豊臣秀長は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):40歳


◇天正7(1579)年◇

播磨国や但馬国を駆け回りながら、がんばっていたようです。

11月19日、有岡城が落城します。


◇天正8(1580)年◇

正月14日、三木城の近くの山城構に入ります。

正月17日、三木城が落城します。

ドラマでは、2月に秀吉といっしょに長浜に帰って、慶ちゃんとラブラブしてました。

5月15日、但馬国で、あゆ取りを許可する文書を発給します。

10月18日、上坂八郎に但馬国の300石を与えます。


☆参考文献:河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4eAfDv7)


豊臣秀吉は今?

#豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):44歳


◇天正7(1579)年◇

3月26日、信長に播磨国への出陣を要請します。

4月5日、有馬阿弥陀堂に寺領を安堵します。

6月28日、播磨国淡河川市庭に掟を出します。

11月19日、有岡城が落城します。


◇天正8(1580)年◇

正月17日、三木城が落城します。

2月10日、長浜に帰ります。

ドラマで、官兵衛を松寿丸と会わせていたのは、このときでしょうか。

3月27日、近江を出立します。

このへんからが、次回でしょうか。


☆参考文献:

藤井譲治『豊臣秀吉』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4dlVeaT)

柴裕之『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4uhsUgT)


慶(慈雲院)は今?

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):?歳寧々ぐらいの年齢?


・天正14(1586)年、『多聞院日記』にて、歴史に初登場します。

なので、このころの動向は不明です。


☆参考文献:黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)(https://amzn.to/48Oxt9Z)


本多忠勝

#豊臣兄弟  24回「軍師官兵衛!」(天正7(1579)年―天正8(1580)年):33歳


長篠の戦いのあと、まだ調べがついていません。

→参考文献では、分かりませんでした。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)

吉川弘文館『戦国武将合戦事典』(https://amzn.to/45eYv8O)

菊地浩之『徳川十六将』(角川新書)(https://amzn.to/49jihSz)

宮本義己『<徳川家康と戦国時代>知られざる異能 軍師・本多忠勝』 (歴史群像)(https://amzn.to/4tRHSJG)



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