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豊臣兄弟登場人物動向チェック 第30回「清須会議」(~天正十年六月二七日)

豊臣秀長は今?

#豊臣兄弟  30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇42歳

このころには、5000人を率いる武将にまで出世しています。

6月2日、本能寺の変のときは、おそらく備中高松城の水攻めに加わっていました。

6月13日、山﨑の戦いでは、黒田官兵衛とともに山の手に配置されます。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。

6月、丹波氷上郡に禁制を出します。


清須会議のあと、秀長に丹波一円が与えられるという噂が広がります。


☆参考文献:河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4eAfDv7)


豊臣秀吉は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇46歳

6月2日、本能寺の変。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月14日、正親町天皇の勅使勧修寺晴豊から、信孝と秀吉に太刀が贈られます。

6月14日、家臣の桑原貞也を京都の目付とします。

6月15日、坂本城を攻め落とします。

6月16日、織田信孝に従って安土へと進みます。ついで、長浜に向かいます。

6月19日、長浜城から退避した家族を匿った広瀬兵庫助に500石を宛行います。

6月20日、美濃国に入ります。

6月24・25日ごろ、清須に入ります。

6月26日、滝川一益に書状を送ります。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。秀吉は播磨・山城・丹波・河内の一部を領することが決まります。


☆参考文献:

藤井譲治『豊臣秀吉』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4dlVeaT)

柴裕之『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4uhsUgT)


柴田勝家は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇61歳

6月27日、清須会議が開かれます。勝家は信長の三男信孝を推しますが、秀吉が推す三法師が織田家の家督となります。勝家は越前に加えて近江北郡を得ます。


茶々は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇14歳

6月2日、本能寺の変。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。


まだ若いので、実際の動向は分かりません。




安藤守就は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇

6月、本能寺の変に乗じて、旧城北方に拠ります。

6月8日、稲葉一鉄父子に攻められて、討ち死にしています。


ドラマで、稲葉一鉄と含みがありましたが、ここで一鉄に攻め滅ぼされることの布石だったと思われます。

与一郎と違って、ドラマではスルーされましたが。。。



稲葉良通(一鉄)は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇68歳

清水城にいたようです。

6月2日、本能寺の変。

6月8日、安藤守就を攻め滅ぼします。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。一鉄がいる美濃国は信孝の支配下に入ります。




徳川家康は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇41歳

6月2日、本能寺の変が起こります。

堺にいた家康は、伊賀越えで三河国に帰ります。

ドラマでは、海路をとりましたね。今年の家康はいいキャラしてますよね。


6月13日、秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破ります。

このころ、家康は軍勢を率いて尾張まで出てきていますが、山﨑の戦いの報を聞いて撤収します。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。



滝川一益は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇58歳

3月23日、上野一国と信濃国小県郡・佐久郡を与えられます。

任地に入ったあとは、宇治のあたりに拠ったとみられています。

6月、長昌寺に能舞台をつくります。


6月2日、本能寺の変が起きます。

6月9日、上野国厩橋城(まやばしじょう、のちの前橋城)で本能寺の変の報を受けます。


6月12日、小泉城の将に出した書状で、信長の死を隠します。

6月18日、倉賀野に出陣します。神流川で北条氏邦の郡を破ります。

6月19日、北条氏直と戦って大敗します

箕輪から信濃国小諸に入り、さらに木曽経由で伊勢国長島に戻ります。帰国するときには、諸将と厩𠄃橋城で酒宴を開いて、能『羅生門』『源氏供養』の一節を謡い合って別離の情を交わします。

……いや、急げよ。秀吉がなんかたくらんどるぞ。


6月27日、清須会議ですが、一益は参加していません。

一益は所領分配の結果に不満をもちますが、秀吉ははねつけます。


長宗我部元親は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇44歳

正月、織田信長に讃岐国と阿波国の引き渡しを要求されますが、断ります。

5月21日、信長に阿波国の諸城を引き渡すことを伝えます。ただし、同時に家臣に讃岐国の土地を与えています。恭順と対立とを天秤にかけていたようです。

6月2日、本能寺の変が起こります。

元親は、堺から来た上の坊という僧侶から変の報を聞いたと伝えられます。

信長の後ろ盾を失った三好康長が阿波国から脱出しますが、元親は病のため出兵を延期したと伝えられます。




毛利輝元は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇30歳

6月2日、本能寺の変のときは、備中高松城が水攻めにあっています。

6月4日、備中高松城が降伏して切腹します。

6月9日、将軍足利義昭から小早川隆景宛に、将軍の帰京に向けて毛利勢は備前・播磨に侵攻するようにと要請されます。毛利氏は上方の情報を集めながら、静観します。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。

7月18日、秀吉に対して、光秀討伐おめでとうの書状を送ります。


☆参考文献:光成準治『毛利輝元』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4uFfzyz)



小早川隆景は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇50歳

6月2日、本能寺の変のときは、備中高松城が水攻めにあっています。

6月4日、備中高松城が降伏して切腹します。

その後、本能寺の変の情報をつかんだときに、秀吉の追撃を主張する吉川元春に対して、隆景は一度停戦協定を結んだ以上は信義に基づいて攻撃しないことを主張した、と伝えられます。

6月9日、将軍足利義昭から小早川隆景宛に、将軍の帰京に向けて毛利勢は備前・播磨に侵攻するようにと要請されます。毛利氏は上方の情報を集めながら、静観します。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。

7月23日、蜂須賀家政に対して、光秀討伐おめでとうの書状を送ります。また、国境確定の交渉を始めます。


☆参考文献:光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4e55AgU)


吉川元春は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇53歳

6月、水攻めされている備中高松城を救援しようとしますが、なすすべがありません。

6月4日、備中高松城が降伏して切腹します。

その後、本能寺の変の情報をつかんだときに、秀吉の追撃を主張する吉川元春に対して、隆景は一度停戦協定を結んだ以上は信義に基づいて攻撃しないことを主張した、と伝えられます。

6月9日、将軍足利義昭から小早川隆景宛に、将軍の帰京に向けて毛利勢は備前・播磨に侵攻するようにと要請されます。毛利氏は上方の情報を集めながら、静観します。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。

7月18日、蜂須賀家政に対して、光秀討伐おめでとうの書状を送ります。


☆参考文献:

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)

『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/45eYv8O)


安国寺恵瓊は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇?歳

備中高松城の降伏交渉に関わっています。

6月4日、秀吉側と交渉して、高松城降伏を受諾します。

7月17日、毛利の使者として、山﨑城の秀吉を訪います。


☆参考文献:

河合正治『安国寺恵瓊』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4emcHAe)


黒田官兵衛は今?

#豊臣兄弟  30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇37歳

6月2日、本能寺の変が起こります。

6月13日、山﨑の戦いでは、秀長とともに山の手に配置されます。

6月27日、清須会議のときは、秀吉に随行しています。


実際は、秀吉といっしょに清須城にいたんですねえ。じゃあ、お前も三法師探せや!


☆参考文献:小和田哲男『黒田如水』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/43EXDc8)

Qg)


別所重棟は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇歳

天正13年まで、動向が分かりませんでした。


☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


高山右近は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇30歳

6月2日、明智光秀の下で高松に向かって進軍しているときに、本能寺の変が起こります。知らせを聞いた右近は、まっさきに高槻城に帰ります。高槻城で守りを固めて秀吉と書状を送り合い、反光秀の姿勢を示します。

6月8日~、オルガンティーノの書状に対して、光秀には味方しない旨の返事をします。

6月12日、秀吉と合流します。軍議の席で、中川清秀と先陣を争います。

6月13日、山﨑の戦いでは大山崎に陣を取り、先陣を切ります。

山﨑の戦いのあとは、近江坂本城攻撃に向かいます。

6月27日、清須会議の結果、右近には河内北郡に三千石と、近江国に千石が与えられました。


☆参考文献:

中西裕樹『戦国摂津の下剋上 高山右近と中川清秀』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4vutvwC)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)

海老沢有道『高山右近』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4eVj3rR)


中川清秀は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇41歳

6月2日、明智光秀の下で高松に向かって進軍しているときに、本能寺の変が起こります。

知らせを聞いた清秀は、まっさきに帰国します。秀吉と書状を送り合います。

6月12日、秀吉と合流します。軍議の席で、片山右近と先陣を争います。

6月13日、山﨑の戦いでは大山崎に陣を置きます。

6月27日、清須会議。


☆参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)



足利義昭は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇46歳

毛利氏の庇護のもとにいます。

6月2日、本能寺の変。

6月9日、小早川隆景宛に、将軍の帰京に向けて毛利勢は備前・播磨に侵攻するようにと要請します。毛利氏に静観されます。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。


参考文献:山田康弘『足利義輝・義昭』(ミネルヴァ書房)(https://amzn.to/4a91kue)



丹羽長秀は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇48歳

6月2日、堺にいました。本能寺の変の報が届くと、兵の大半が逃亡します。

6月5日、信孝とともに信澄(明智光秀の女婿にあたる)を攻め滅ぼします。

6月11日、尼崎で秀吉に合流します。

6月13日、山崎の戦いに参加します。光秀滅亡後は、洛中を沈静化して、近江で光秀方に占拠されていた佐和山城を奪還します。

秀吉らとともに、美濃国を平定します。

6月27日、清須会議に参加します。秀吉に賛同します。若狭国に加えて、近江国高島と志賀の二郡を得ます。


参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


池田恒興は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇47歳

6月2日、本能寺の変が起こります。恒興は伊丹にいたと考えられます。

6月3日~、尼崎で秀吉たちと合流します。

6月13日、山崎の戦いが起こります。恒興は右翼の主力となります。

6月14日~、一度入京したあと、摂津に戻ったと考えられます。

6月27日、清須会議に出席します。織田家の家督は信忠の長男の三法師とされます。

恒興には大坂・尼崎・兵庫に十二万石が与えられます。

大坂に移ります。


ドラマだと少し若く見えますが、丹羽長秀と一歳しか違いませんねえ。


細川藤孝は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇49歳

6月2日、本能寺の変のときは丹後宮津にいました。

6月3日、本能寺の変の報が届きます。備中出陣を取りやめて、軍を返します。

剃髪して幽斎と号し、家督を忠興に譲ります。光秀に味方しないことを示したわけです。

田辺城に移り、秀吉に使者を送ります。

6月9日、光秀から直筆の嘆願が届きます。

6月13日、山﨑の戦いには参加していません。

6月27日、清須会議です。

7月11日、秀吉から功を賞されて、丹後国で加増されます。


☆参考文献:

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


織田信忠は今?

#豊臣兄弟 27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇26歳

正月15日、爆竹に連枝衆の筆頭として参加します。

2月1日、木曾義昌が信忠に降ってきます。

2月3日、先陣として森長可らを出発させます。

2月12日、出陣します。

2月16日、今福昌和を破ります。

2月17日、大島城を攻略します。

3月1日、高遠城を包囲します。

3月2日、高遠城を攻略します。

3月7日、甲府に入ります。

3月11日、武田を滅ぼします。

3月26日、信長より褒賞されます。

5月14日、安土に帰還します。

5月21日、家康を案内して京都に入ります。信忠は妙覚寺に入ります。

5月29日、信長が上洛してきて、本能寺に入ります。

6月1日、夜に本能寺を訪問します。

6月2日未明、明智光秀が本能寺を囲みます。

この続きは、第28回でやるかもしれないので、今回はここまでです。



参考文献:

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)

柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dP8FBp)


織田信雄は今?

#豊臣兄弟 27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇25歳

元旦、安土に出仕します。

正月15日、爆竹に参加します。

3月、信長に従って武田攻めに行きます。

6月2日、本能寺の変のときは、伊勢松島の居城にいました。


参考文献:『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


織田信孝は今?

#豊臣兄弟 27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇25歳

5月7日、讃岐一国を与えられます。

5月25日、安土で信長に謁見し、翌日か翌々日に出陣します。

住吉に着陣します。

6月2日、堺にいました。本能寺の変の報が届くと、兵の大半が逃亡します。



参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


織田信澄は今?

#豊臣兄弟 27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇25歳

3月、信長に従って武田攻めに向かいます。

5月、信孝の副将として住吉に着陣します。

6月2日、徳川家康の接待を命じられたので、本能寺の変のときは大坂に戻っていました。



参考文献:柴裕之『戦国武将列伝別巻1織田編』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4u8MyMi)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)



与一郎は今?

#豊臣兄弟  25回「変事の予兆」(天正8(1580)年8月―天正9(1581)年2月)


◇天正8(1580)年◇歳


◇天正9(1581)年◇?歳


史実ベースでは秀長の実子(慈雲院(慶)との間の子)です(『羽柴秀吉とその一族』)。まだ子供なので、動向は分かっていません。


参考文献:黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)(https://amzn.to/4wA9Qfn)


豪姫は今?

#豊臣兄弟 25回「変事の予兆」(天正8(1580)年8月―天正9(1581)年2月)


◇天正8(1580)年◇歳


◇天正9(1581)年◇8歳

さすがに、まだ正確な動向は分からないようです。


参考文献:岩沢愿彦『前田利家(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dOONOT)


藤堂高虎は今?

#豊臣兄弟 27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇歳



☆参考文献:

諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4dAxyRd)

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)

吉川弘文館『戦国武将合戦事典』(https://amzn.to/45eYv8O)


石田三成は今?

#豊臣兄弟  27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇23歳

史料に初登場するのは天正11(1583)年なので、正確な出仕年代は不明です。

このころの動向はわかりません。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


平野長泰は今?

#豊臣兄弟  27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇歳

不明


☆参考文献:

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)


片桐且元は今?

#豊臣兄弟   27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇歳

辞書で言及されているのは、賤ケ岳の戦いからなので、正確な出仕年代は不明です。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


加藤清正は今?

#豊臣兄弟   27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇歳

まだ動向は不明です。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


福島正則は今?

#豊臣兄弟   27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇22歳

まだ動向は不明です。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


筒井順慶は今?

#豊臣兄弟   27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇34歳

元旦、安土城で信長に年頭の挨拶をします。

正月7日、金春家伝書を家臣の稲地秀保に授けます。

2月9日、武田攻めの準備を命じられます。

3月、武田攻めに出陣します。

6月2日、朝に京へと向かうも、信長が既に安土に帰ったという情報が入ったので郡山に引き返します。でも、京では本能寺の変が起こっていました。


☆参考文献:

金松誠『筒井順慶』(戎光祥出版)(https://amzn.to/4tTdT40)

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)


荒木村重は今?

#豊臣兄弟 27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇47歳

尾道にいたのでしょう。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4dP8FBp)

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)


蜂須賀正勝は今?

#豊臣兄弟  27回「本能寺の変」(-天正10(1582)年6月)


◇天正10(1582)年◇57歳

不明瞭です。


ドラマでは、、、おめでとうございます!

やっと約束が叶いましたね。小六ももう55歳になっています。

『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)(https://amzn.to/4uJhhQg)




慶(慈雲院)は今?

#豊臣兄弟  25回「変事の予兆」(天正8(1580)年8月―天正9(1581)年2月)


◇天正8(1580)年◇歳


◇天正9(1581)年◇歳:?歳寧々ぐらいの年齢?


・天正14(1586)年、『多聞院日記』にて、歴史に初登場します。

なので、このころの動向は不明です。


☆参考文献:黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)(https://amzn.to/48Oxt9Z)


本多忠勝

#豊臣兄弟  25回「変事の予兆」(天正8(1580)年8月―天正9(1581)年2月)


◇天正8(1580)年◇33歳


◇天正9(1581)年◇歳


長篠の戦いのあと、まだ調べがついていません。

→参考文献では、分かりませんでした。


☆参考文献:

『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)

『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)

吉川弘文館『戦国武将合戦事典』(https://amzn.to/45eYv8O)

菊地浩之『徳川十六将』(角川新書)(https://amzn.to/49jihSz)

宮本義己『<徳川家康と戦国時代>知られざる異能 軍師・本多忠勝』 (歴史群像)(https://amzn.to/4tRHSJG)


寧々は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇41歳

6月2日、本能寺の変。

長浜城が攻められたので、大吉寺に避難します。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。


詳しい動向は分かりません。山﨑の戦い後に大吉寺から戻ってきているとは思うのですが。

まあ、清須会議までは長浜城にいたのかなあ。



茶々は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇歳

6月2日、本能寺の変。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。



茶々は今?

#豊臣兄弟 30回「清須会議」(~天正10(1582)年6月27日)


◇天正10(1582)年◇歳

6月2日、本能寺の変。

6月13日、羽柴秀吉が明智光秀を破ります(山﨑の戦い)。

6月27日、清須会議で三法師(秀信)が織田家家督を嗣ぎます。


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