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歴史部通信:6月6日号


【次週(6月8日~11日)の予定:世界史】

月:4巻158p~

火:3巻128p~

水:1巻184p~

木:2巻179p~


※次のお休みは、6月22日(月)~6月25日(木)です※

→年間スケジュール


個別授業(探究コース・テスト対策コース)の予約方法が変わりました。

①探究コース:自由研究・レポート作成・史料読解など→ストアカPeatix

②テスト対策コース:歴史能力検定対策・受験対策・大学受験論述対策など→ストアカPeatix

※ストアカは、上記のリンクからアクセスしないと割引になりませんので、ご注意ください。


【質問調査結果】

Q:惣村のメリットとデメリットは?

歴史部内で、共同体を作ると一人ではできなかったこともできるようになるというメリットと、共同体のみんなで助け合う以上は自分の自由を削って他人のためにがんばらなければならない場面がでてくるというデメリットを、説明しました。


上記の点について、『室町幕府と地方の社会』に分かりやすい史料が紹介されていました。


・メリット

以下は、東大寺領大井庄の住民の言葉を榎原氏が要約したものです(東大寺文書)。

「両方の軍勢が上洛のたびに荘園に入ってきて、牛馬や米・大豆を運び取っていきます。今後は一か所にまとめて守ろうということになり、力を合わせて警固した結果、濫妨を防ぐことはできましたが、面々の負担はたいへんです」


・デメリット

以下は、室町時代中ごろの村掟です(今堀日吉神社文書)。榎原氏の本からの引用です。

「一、寄合の召集を二度かけたのに出てこない者は罰金五十文


惣村が南北朝期に発達した理由は? 東国よりも畿内とその周辺で早く発達した理由は? できれば、それ以前の時期の「村」の様子や、経営単位を知りたい。

中世の成立期から始まった大規模開墾が、鎌倉後期にはだいたい落ちついて、人々の定住性が高まります。その過程で、13世紀以降、住民が特定の場所に集中する集村化がみられます。こうして、人々の居留地としての中世の村が生まれました。それ以前は浪人も多く、人々は流動的だったそうです(西谷)。

また、当時の技術で限界まで開発が進み、限られたパイをめぐる村々の争いが増加しました。

こうして、集落(村)が固定的となっていき、下で述べる小農の自立もあり、惣村が形成されていったという説明になると思います。ということは、南北朝の争乱に対抗するために惣村が形成されたわけではない、ということにもなると思います。


榎原氏の本によると、関東では、地形的にも開発史的にも、集村化が畿内周辺よりも一世紀遅れているそうです。なので、これまでの図式を当てはめると、集村化の遅れが小農民の自立の遅れとなり、惣村形成の遅れとなったということだと考えられます。


経営単位については、西谷氏が以下のように述べています。

「古代末期には、東京ディズニーランドの面積(約五一ヘクタール)におよぶような広大な土地を抱え込んで粗放農業を営む大農が活躍した。しかし鎌倉時代には、そうした大農は完全に姿を消し、二、三町程度の耕地を一家で経営する中農たちが農業の主要な担い手となった(中世の一町は一・一九ヘクタール)。この中農とは、荘園の名主をつとめる者たちであった。」

なお、二、三町の耕地を経営するためには、少なことも三~六人の男手が必要だったそうです。

これに対して、集村化して惣村が形成されるにつれ、粗放農業は克服されて、土地を高度に利用する集約農業が可能となります。そして、生産性の向上を受けて、独立的な小農が農業経営の主力となりました。


参考文献:

榎原雅治『室町幕府と地方の社会』(岩波書店)(https://amzn.to/43FeTxV)

西谷正浩「村に生きる人々」(『日本史の現在3 中世』山川出版社・2024年)(https://amzn.to/437Sd9y)

『論点・日本史学』(ミネルヴァ書房・2022年)(https://amzn.to/3PBCMDr)


加藤高明の結婚について調査結果


以下の文献を読んだのですが、加藤くんがすばらしいので選ばれた、とあるのみで、他の候補がいたのかどうかまでは分かりませんでした。残念。

②伊藤正徳『加藤高明』(1929年)

③佐伯平造『加藤高明伝』(1928年)



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